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四旬節第5主日:イエスの生き方は「自己否定」。わたしたちを生かすために

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四旬節第5主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

四旬節第5主日(B年)の説教=ヨハネ12・20~33

2024年3月17日

日頃から何もなく安寧のうちに過ごすことが出きていれば、人にとって一番の幸せではないかと思います。あるべきものがそこにあり、何らその心配をすることなく、しかも、それが永遠に受け継がれていくことになれば、なんとすばらしいことだろうと思います。それが天国なんですよ。天国は受け継がれていくもので、途絶えることはないのです。その意味では、現代においても、わたしたちは日常いたるところで天国の体験をしていることになるとも言えます。

そしてそのことを語りついで行けるようにありたいものです。確かに、イスラエルの文化は先祖代々何百年の間に受け継いで今日に至っています。その間には「受け継ぐ動き」にもゆがみが、生じてくることがありうるということになります。いわゆる、当時の情勢の勢力配分布の在り方によって、強調されていく内容、ポイントに多少の比重の大きさにこだわりが生じてまいります。

特に、当時の社会のリーダーとして君臨していたファリサイ派の人々にしては、小さな法律をたくさん決め、それを守らせることに大きな比重がかけられていたように思います。つまり、掟の一点一画も文字通りに守りゆくことが、天国(救い)への近道であるというように思っていたのです。ですから、人々にもそのように教え、実行させることに誇りみたいなものを感じていたのです。あくまでも自分たちはエリートであるということです。

その実、大事な神の掟はないがしろにされていました。というよりも、神の掟が、一つ一つの小さな掟の前に隠れてしまっていたのです。実に残念なことです。これでは神の何たるかを知る手がかりは何もわからないことになります。残念なことです。神がわたしたちに望んでいることも、どう生きればいいのかも、本当のところは民に隠されたままです。実は、そこには神の意志が隠されていたのではないでしょうか。本当の神の心が隠されたままに、でも、正直に生きていたのです。

「遺志を継ぐ」という話は、今も昔も同じくあるんですね。南大隅町出身の画家で昨年11月に死亡した向吉文男さんが地元に作った「ギャラリームコヨシ」で、亡くなった3か月たった今でも、作品展示会が続いています。数々の受賞歴が、パり留学も経験した向吉さんが「本土最南端の町に、文化発信拠点をつくりたい」と実家を改修し後世に残した施設。

向吉さんは出水高校教諭時の1986年、南日本美術展のパリ章を受章。全国の二科展でも活躍したのです。「子どもたちの絵や書などを飾る場になれば。地元から新たな才能が出てきてほしい」とこのギャラリーをつくりました。 

「伝承の文化」とはいっても、その歴史、時代背景の中で意味合いが多少変わってしまうこともあるかもしれません。それは、当時の人々の強調点が変わってくることによるものだと思っています。それがいい方に走ればいいのですが、そうじゃない方向に行ってしまったとき、人はどうなるのか。

ユダヤ人の社会の中でも似たようなことがありました。彼らの伝承は、神から受け継いだ教え、掟、その説明など、生きるために大切なものばかりでした。特に神との関係が重要です。だって、わたしたち一人ひとりは神に生かされているからです。エジプトからの脱出、砂漠での生活等、なにを取り上げても、神が救い、養ってくださったからです。その神を代々にわたって口伝えしてきたのです。律法に関しても当然のごとく入っています。ファリサイ派は文字通りの掟を順守することを大事にしてきました。その彼らと闘ってきたイエスは、ひたすら神から受けた栄光を表すために生きてこられました。

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死を目前にしたイエスにとって、イエスの気持ちが明らかにされます。わたしたちは、誰でも一度は死にます。死を目前にした人が曰く。「やはり死ぬことは怖い」と。罪を犯し続けた罪びとだからですか。それは皆同じです。イエスはその説明を試みて、死の意味を明かします。弟子たちに例えを話されます。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」と。

イエス、その生き方は、まさに、他者を生かすために、つまりわたしたちひとりひとりを、神の子にふさわしく生きるようにとの父のご計画だったのです。父の栄光を現すために生きられた一生でした。それはまた、弟子たちに悟らすために、その生き方を続けられました。その命は、きっと誰かのために役に立つものであることを、その一生を通して示されたのです。人間的な言い方をしますと、「生きること」自体が人のためになっているとはいえませんか。そう思えるようになった時、「働く」ことの意味も大きな意味を成してきます。

これまさに、「自己否定」の生き方です。これがイエスの生き方でした。

イエスは人々に踏みつけられましたけどね、・・。

わたしたちも究極的にはそこにたどり着くのでしょうが、・・・

 

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