待降節第1主日(B年)の説教=マルコ13・33~37
2023年12月3日
「フードロス」で鬱的になる若者の話から
「とある立食パーティーに出席していた時のこと。知り合いの20代の女性が浮かない顔をして『こういう場では、気分が落ち込んでしまうんです』と話していました。会場を回遊しながら社交をするのが苦手、といったことではなく、『こんなに大量の料理を用意して、パーティーが終わったら、大量のフードロスが出てしまう。そう考えると、涙が出てきます』」
これは、酒井順子さん(エッセイスト57歳)が「時論」のコラム欄に投稿された書き出しです。(南日本新聞2023年11月27日朝刊)確かに立食会ではたくさんの、いろいろなレシピ料理など、視覚的にもまさしく豪華に見えます。酒井さんは、その彼女の話を聞いて驚きとともに反省させられたと言っています。酒井さんの思いの中では、こうした類の食事会では華やかな食べ物が並ぶのが当たり前だと思っていたからです。ところが、今の時代の若者は違うんですね。昨今の若者はこのような状態に心を痛めているというのです。
「環境問題」を自分のこととして考えたい
つまり、酒井さん曰く、「温暖化など、地球環境の悪化に自分も加担していると思うとどんよりして、鬱状態になってしまう若者がいるのだそう。」ということのようです。「対して中高年の場合は、『ま、自分が生きているうちは地球も大丈夫なんじゃないの?』という感覚を持ちがちです。もちろん中高年も、ゴミをきちんと分別したり食べ残しをしないようにしたりといろいろと気を使っている人が多いものの、立食パティーの料理を見てどんどん落ち込むという“SDG‘s鬱”的感覚は、今の若者だからこそ、ではないか」と付け加えています。
そして結んでいます。「若者が地球のことを心配し過ぎなくてもよくなるためにも、大人たちもまた、自分のこととして環境について、そして未来について考えなくては、と思ったのでした」と。
「自分のこととして考える」というときに、それはどんな意味なんでしょうか。それこそ、各自、目を見開き、現実を凝視し、「今」から「未来」に希望を託しながら、忍耐強く今の現実を生きていく注意深さが必要なんでしょうか。それこそ、人の数だけの考え方があり得ます。固く考える必要はないんでしょうが、真剣であることが求められるでしょう。だからこそ、今の若者にとっては「鬱」になるほどに、わが身にのしかかるほどの重要問題なのです。地球の存続は、自らの日々の生活と直接に関係しているからです。言うまでもなく、中高年と比べ、これからの人生が長いからでもあるでしょうか・・。
今日から、教会暦の新しいページが始まります。待降節に入りました。キリスト降誕を前に、どのような準備をしてその日を迎えたらいいのでしょうか。
キリストの誕生祭の準備期間・待降節とは
その準備のために、という意向があるのかもしれませんが、とにかく、いろいろな「キリスト降誕」の前祝が、各国、各地で執り行われ、その内容もさまざまです。みなさまの地域ではいかがでしょうか。同じ国内でも、地域、地区によっては、同じようであっても多少の違いがあるかもしれません。こうした準備をすることで、意識的にも、行動的にも積極的に祝いに参加することが出来ます。
子どものころからもそうですが、楽しいことに没頭していると、不思議と眠気に襲われないんです。目がばっちりと開いて、祭りが終わった後にどっと疲れが出ます。このようなクリスマスの祝い方でいいんでしょうか。どんな形でも真心がこもっていれば、神に、イエスに嘉されるんではないんでしょうか、わたしたちが純粋な人間である限り。
でも、クリスマスの祭りが意味しているメインの思いは、「救いの時がやってくる」ということです。願わくはその思いが蚊帳の外に置かれないようにしなくてはいけないです。そういう救いの時がやってくるという確信は、旧約の人々の心に深く焼きついていました。どんなに無視されても、希望を失くしそうになっても、その確信は揺らぐことがなかったのです。とても不思議だなと、でも同時に偉いなとも感じます。現代に生きるわたしには。未熟者であることを意味するんでしょうね。しかし、旧約の人々からの伝承が、今に生きるわたしたちにも受け継がれて、その恵みにあずかれるという幸いを得ているのです。
人は基本的には”待つ者”。なぜ何を待つ?
受け継がれてきた確信の根拠は何でしょうか。何かが彼らの中にあったのです。
わたしたちは基本的には「待つ者」です。というのは、誰でも他者に対して悪いことをしでかしている者だからです。それを赦してくれるのは、「自分」ではなく、相手の方です。それが、本当は神に対しての悪だったのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25章40節)とイエスがおっしゃるように、良いこともその逆のことも、同じく神に対してなしたことです。わたしたちは主にすがり、ためらいながらも「待つ」しか道がないのです。目を開けて、眠り込まずに待つのです。
当時の人々は、ただ一つのこと、つまり主の再臨(救いの完成)を熱心に待っていたのです。終末の日は「救い」だと知るキリスト者は、今を大事に生きますが、このような希望が「目を覚まして」生きるという態度を維持させます。
つまり、彼らの中にあったのは、「救われること」「赦されること」への強い渇望があったのです。それを支えたのが、「希望していく」ことだったのです。続けていくことでした。
若者のSDG’s実現の目標と相通じる?
今に生きているわたしたちには、このような願望に支えられたものがあるでしょうか。今の若者の抱くSDG’s実現の目標はこれに当たらないでしょうか。中には鬱になるほどに懇願している若者がいると聞きます。それがいいかどうかではなく、彼らの呼びかけにいかに同意賛同していく人が増えるかどうか。友になり続けていくこと、それが安心してたどり着く港に航行できる力になってくるのでしょう。「自分のこととして」どう捉えられるかがいつも問われています。
それが、さらに受け継がれてきた希望を膨らませ、もっと仲間の輪を大きくしていきます。
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