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待降節第3主日:神のことばを活動の中心に!まずはそのことに目覚めたい

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待降節第3主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

待降節第3主日(A年)の説教=マタイ11・2~11

2022年12月11日

待降節…静かに、希望と忍耐のうちに待つ

待降節は文字通り「待つ」期間であり、しかし、何もしないで、手をこまねいて待つのではなく、絶えず静かな中にも希望をもたらす「忍耐」のうちに待つのです。イエスはヤコブの手紙を通して、農夫の姿に目を向けなさい、と言われます。「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。」と今日の第二朗読 (ヤコブの手紙5章7~8節)の中で示されています。

人間の成長も、その人が仕事に就いて、他者に社会にいろいろと貢献できるようになるには、かなりの時間がかかります。そして、そのことに焦りを感じて慌てる親もいません。ごく当たり前のこととして「子育て」に当たるのです。そして、少しずつ身も心も成長し、品格ある大人に育っていきます。時間を掛ける価値があるからです。つまり、わたしたちは他者に開かれた一人ひとりだからです。だからこそ、基本的には、どのような仕事であっても、そこには「喜び」という中身がついてきます。相手の方も喜ぶし、「わたし」自身も喜びを大いに感じます。これが仕事することであり、生きていることなのではないでしょうか。

麦の芽福祉会「まだ道半ば。希望を感じる」

今年、設立40周年を迎えた社会福祉法人があります。障がい者支援「麦の芽福祉会」です。記念すべき歴史の節目に記念式典を開きました。(南日本新聞2022年12月6日朝刊) 新型コロナウイルスの影響で人数制限をする中、職員や利用者、家族ら約180人が「ゆりかごから墓場まで」の支援の歩みを振り返り、「だれもが暮らしやすい社会を築いていく」と誓い合いました。

「麦の芽福祉会」は1982年、無認可作業所からスタートしました。子どもの養育に取り組むあすなろ福祉課と統合して1992年社会福祉法人となりました。障がい児の早期療育や障がい者の就労支援、グループホーム運営などを行い、鹿児島、薩摩川内、指宿の三市に60事業所を展開し、延べ2000人以上の利用者がいます。

無認可作業所時代からの利用者、田中美鶴代さん(59歳)は「初心を忘れず、周りへの思いを忘れず、まえにすすんでいきたい」。設立当初メンバー中村隆司・専務理事(66歳)は「仲間たちの願いの実現はまだ道半ば。一方で市民の理解は進んでおり、希望を感じている」と話しています。

希望があれば喜びが伴い、前進する力が湧く

希望のある動きには必ず「喜び」がついてきます。そうすると前に進む力も湧いてくるものです。やることなすことすべてがいい状態で展開されていくのです。

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きょうの主日は古くから「よろこびの主日」と言われてきました。入祭唱が、パウロのフィリピの人々への手紙(4章4節~5節) 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」という喜びへの招きの言葉から始まるからです。きょうのみ言葉全体も、そのメッセージ内容は「よろこび」です。そして、主の降誕を前にしたよろこびです。「いつも」ですから、なくなってしまうことのないよろこびなのです。

ところで、わたしたちの日常生活の中で、喜びと悲しみ、どちらの方が多いでしょうか。それは後者の方だと言いたくなる人が多いのではないでしょうか。どうしても、人の記憶の中で印象強く残るのが悲しみの方だからでしょう。やはり、嫌なこと、辛いことはかなり尾を引いてしまうことが多いです。この度のサッカーのワールドカップ(W杯)・カタール大会で、決勝トーナメント一回戦に勝ち上ったわが日本チーム。クロアチアとの大接戦の末、PK戦で惜しくも敗退しました。が、三苫選手がいみじくもコメントしていました。彼はゴールシュートを失敗したのです。その後のインタビューで、「僕のサッカー人生の中で、思い出してしまうシーンになるでしょうね」と。

思い通りにならず、無力感に陥ったときこそ

思い通りにならないわたしたちの人生、その根底には人間の無力さがど~んと支配しています。わたしたちは、事に対して自らの無力さを体験することも多いのではないでしょうか。その間、喜びの体験があっても無力感がしみ込んでいる限り、束の間の気休めにしかならないのです。でも、こうした弱さ、無力さの中にあっても、未だほんのりとともっている「喜びの灯」を、消え失せないように愛の神が手を差し伸べてくれます。今日の福音の中にそれが示されているのでは、・・。

洗礼者ヨハネはイエスがメシアであることを知っていたに違いないのです。正義の人ヨハネが抱いているメシア観は、「良い実を結ばない木」(マタイ3章10節)をことごとく切り倒す裁き手です。しかし、イエス自身のなさっていることは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」という業です。神の言葉は必ず出来事として結実するということです。

神に自らを委ね、神の愛の手を感じたい

したがって、イエスの奇跡にひびく神の声に耳を傾け、天の国を受け入れるならそこに幸せ、喜びが生まれます。天の国は人を根本的につくり変える力をもっているからです。どうしてもわたしたちは神を人間の思考範囲の中に閉じ込めようとしがちです。つまり、人間の思いの中で、いつの間にか神を都合よく利用しようとしているのです。こうした誘惑から解放されるには「時」がかかるでしょう、「無力さ」に満ちみちているわたしたちだからです。

人間同士は助け合い、神との関係では自らを「委ねる」時に、洗礼者ヨハネを超えるのです、とイエスは言われます。神の言葉が現実のものとして実を結ぶところだからです。これが「天の国」です。

福祉活動の中心に、神の言葉がいつも響き、わたしたちが、そのことに目覚めますように。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

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