キリストの聖体(A年)の聖書=ヨハネ6・51~58
2023年6月11日
神の恵み、他者の恩恵に心を向けてみると…
わたしたち一人ひとりの日々の生活、その中で出会ういろいろな出来事等、すべてこれらのことが体験できるのは、当たり前のことですが、一人ひとりが「生きている」からです。生きているがゆえに苦しいこともたくさん味わいますが、逆に嬉しいことも、これまた、たくさんあります。
通常はあまり考えたこともないことなど、たまには意識的になって日々のありがたさを感じることが大事かなと思っています。
因みに、この3年間、新型コロナウイルスに悩まされて初めて、何も特別なことはなかったけれども、日々の平穏な毎日がありがたく思われました。何も特別な、いいことが起きなくても、毎日、心身ともに元気に、穏やかに、安心安全のうちに過ごせていることを感謝できること、そのことをもありがたく思って生きていかなければいけないなと思っています。これは、意識的にならないとできないように思います。つまり、神の恵みに意識を、心を向けてみるのです。実に、わたしたちは周りのたくさんの方々に助けられ、支えられ、お世話になっているからです。中でも神に一番お世話になっています。
魚介、農作物を食べるには多くの人の手が
取って付けたような言い方になりますが、例えば、魚介類を「食べること」一つをとっても、漁師の方、それを荷揚げして販売してくださる方、それらを運んで店頭に並べてくれる方、その他農作物では、農業関係者、流通業者の方々等、数えきれないほどの多くの方にお世話になっています。また、身近には、家庭内で料理を朝昼晩と担当してくださる方、これらの支えがあって「わたし」という一人の人間が今ここに元気にいることができています。ちょっと大げさな表現になりましたが、事実は、すべての人にとってこうです。
感動した「プラゴミ」再生、環境保全活動
鹿児島県日置市にお住いの岡田香織さん(31歳)が、「プラごみ再生」に取り組んでいるニュースを読み、すごいなと感動を覚えました。(南日本新聞2023年6月5日朝刊)「プラごみ」削減を目指して取り組んでいる人ってたくさんいるのでしょうが、自分自身どれだけの関心をもって今日まで来たのかなと反省しきりです。一時期マスコミなどにも取り上げられ、レジ袋の有料化がすすめられてきました。でも、間接的な協力でしかないけれども、しないよりはいいか、などと安易な気持ちでいる自分を感じます。マスコミの動きで、一時的な盛り上がりはいつもあるんですが、長続きし、徹底した廃止への道のりは、こうした献身的なかかわりをしてくださる方に支えられているんだなと思います。そして、こうした運動は、やはり結果を出さないと「日の出」を見ないのかなとも、・・・。
岡田さんは東京都の出身で、大学在学中から途上国が抱える環境問題に関心があったといいます。卒業後は大手銀行を経て2019年に青年海外協力隊員としてマレーシアへ渡りました。現地で適切に処理されないまま身近にプラごみが散乱している状況を目の当たりにし、何か手立てがないかを探っているうちに、オランダ発の「プレシャスプラスティック」という取り組みに出会いました。この取り組みとは、プラスティック廃棄物をリサイクルして価値あるものに変えるというものです。そして、世界的活動につなげることを目指しているのです。
そこで岡田さんは、南さつま市で粉砕する機械の作り方を学びました。さらに地元の物産館や施設で再生された製品を展示しながら販売し、講演やワークショップを通して環境啓発活動への理解も深めています。試行錯誤を繰り返しながら、奮闘する日々が続いています。
これらの活動は誰でもが簡単に取り組めるものではないでしょう。が、なにがしかの応援をしていきたいです、・・。「祈ること」は誰にでも、どこでもできます。
「肉と血の話」は常識では理解できない神秘
今日の福音は実に大変なこと、さらには、人間の常識ではとうてい考えられない神秘が、ユダヤ人との対話の中で示されています。この話を聞かされた弟子たちの中には「これはむずかしい話だ」と言ってイエスのもとを去った弟子たちもいましたが、12人の弟子たちはイエスの言葉を信じたのです。
イエスとユダヤ人の対話は、「天から降ってきたパン」についてです。今日の福音の前までは、「パン」は人が聞いて従うべきみ言葉の象徴であり、そこでの「パンを食べる」とは、イエスを神の言葉として受け入れ、深く心に留めることのように見えます。ところが、今日の福音では、「パン」の意味する曖昧さが消えていきます。
イエスが与える「パン」はイエスの「血と肉」そのものであることが明確にされています。そして、イエスの「肉を食べ、血を飲む」ことが永遠の命への道であることが明らかにされます。「食べる」は、動物が「むしゃむしゃ食べる」ことを意味する表現だそうですが、ヨハネがわざわざ使っているのは、イエスの血と肉をご聖体の形で実際に「食べる」ことに焦点を合わせたかったのだ、ということです。
救いの奉献が「終わりの日」まで続くように
イエスがご聖体を制定された時というのは、イエスの命がこの地上から抹殺される、まさにその直前だったのです。その命をささげて十字架の刑に挙げられるその時でした。その刑は人々への愛とゆるしと救いの極みとしてのイエスの奉献でした。自らの生涯を、人々を愛するがゆえに捧げた命がけの業でした。この業を「終わりの日」まで続くようにと、聖体の秘跡を制定されたのです。
神は人が滅びるのを望まれないからです。神のみことばであるイエスは、自身の「血と肉」を差し出すことによって、信じる者の中に「いのち」を実現させるのです。
プラごみの処理再生に生涯をささげておられる岡田さんの取り組みは、周りのたくさんの人を新たに生かし、住みよい生活環境を保ち、発展させていく、いわば、一つの救いの業ともいえます。それは、お互いお世話をし、されるかかわりを通して具体化して一人ひとりに恩典として授与されます。
「わたし」の身近なところにはどんな「救いの業」があるのでしょう。
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