四旬節第2主日(A年)の説教=マタイ17・1~9
2023年3月5日
人の人生には二つの道があるのでは?
わたしたちが成長し、自分で考え判断して行動することができるようなると、自分の周りで起きる出来事に、その時その時で対応し、処理していきます。つまり、具体的な対応の在り方を企画し、それを実現する手立てを考え、実行に移しているのです。そして、事がうまく運べば満足するし、生きがいを感じ、さらなる前進を図ります。こうした動きが普通なのかもしれませんが、仮に、成功したといっても、逆に、そのような生き方に空しさを感じ、次第にやる気を失くしていく人がいるのも事実です。これでいいのかな・・・と。
わたしたちの人生は、一人ひとりにとって確かに「わたしのもの」ですが、そのように確信している、そのこと自体が、不安や空しさの原因になっていることはありませんか。「自分の」ことだからどのようにしようと自由ではないか、との考えで取り組むと、失敗した時に、弱気の虫が頭をもたげ、責任転嫁をしたくなるような誘惑を感じませんか。「わたしのもの」であれば、最後まで自分で責任を持つことが求められるでしょう。しかし、自分にとってのご都合主義が、弱い人間・わたしたちの逃げ場になってしまっているのではないかと感じてしまいます。
「自分が選択する道」「与えられた道」
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。力の限り努力し、やれることはすべてやったのだから、後は運命に任せるほかない、といった意味合いの表現でしょうか。この表現の中に「天命」という言葉があります。その意味を探ってみますと、「天命(てんめい)とは、天から与えられた命令のことである。また、人がこの世に生を授けられる因となった、天からの命令のことである」とあります。(ウキペディア)
つまりは、人の人生と言えば二つの道があるように思えるということです。一つは、誰でもそう思っているように「自分が選択する道」、もう一つは、先の道の生き方の対極にある「呼び出されて与えられた道」です。今日の第二朗読で読まれるパウロの手紙に次のように記されています。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです」と。(Ⅱテモテ1章9節)
第一朗読に登場するアブラハムも「呼び出されて与えられた道」を歩んだ人です。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。・・・アブラムは、主の言葉に従って旅立った」(創世記1章1節と4節)とあるからです。もっとも、この呼び出しの声に身を任せることができるのは、その声がまがいものではないという確信を持てることです。
イエスは「与えられた道」を垣間見せた
今日の福音書に登場する話は、タボル山におけるイエス変容のできごとです。イエスの姿は何とも神々しいものでした。マタイは記しています。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と。イエスの姿の輝きは神的世界の姿、すなわち、ご自分の「復活」を垣間見させるものでした。日常からきりはなされた「山」で三人の弟子たちは、イエスが神の栄光に輝く姿で、モーセとエリヤとともに語り合うのを見ます。旧約時代の二人はともに天にあげられた人たちです。この情景を見た弟子たちは、イエスが天に属する存在であることを悟るのです。イエスはご自分の「呼び出されて与えられた道」を弟子たちに垣間見せたのです。
その雰囲気はとても気持ちのいい至福の時だったのです。それを現実の世に留めておきたくて、ペトロは仮小屋を三つ建てることを提案します。が、この提案は取り上げられません。できることなら、少しでも長い間、この幸福を味わっていたいという願いがあったのでしょう。しかし、それだけにとどまっていてはイエスの真の弟子ではありえないのです。
「彼に聞け」という神の声を考えると…
提案を退けた代りに、神はイエスの本性を明らかにして「彼に聞きなさい」と、輝く雲の中から指示なさいます。ペトロは人間の情に、わたしたちも人生における幸福だけを期待し、いわば人間的な本能に引きずられてしまっていませんか。「彼に聞きなさい」とは、しっかりとイエスを見て、そこから生き方を学びなさいという、人生の厳しさを教えようとなさいます。
現実のイエスは、家庭的な幸せも奪われ、安らぐこともゆるされず、一人で十字架の道を歩まれるのです。イエスの道は、人間的に見れば、栄光への道ではなく、暗黒への道といわざるを得ません。喜びへの道ではなく、苦しみへの道です。弟子たちの目には、生への道ではなく、死への道に見えます。イエスは自らこの道を選択していったのです。「自分が選択する道」と「呼び出されて与えられた道」とが、イエスの中で一つとなっています。
イエスに聞き続けなさいという励まし
生きていることの喜び、安寧に執着する「わたし」にとっては、越えがたい壁であり、躓きの事実です。どうしても人間の思いが勝ってしまうからです。ペトロのみならず、「わたし」のイエス理解には不足があります。だからこそ「彼に聞け」という神からの言葉は、わたしたちに「イエスに聞き続けなさい」という促しの、励ましの言葉です。その声はまがいものではないがゆえに、聞き続ける時に「聖なる招きによって呼び出してくださった道」が見えてくるはずです、というのです。
はたしてわたしたちは、「聞き続けてきたでしょうか」「聞き続けているでしょうか」「聞き続けようとしていますか」。ちょっとした聖体訪問を大事にしていますか。
さあ、今からでも遅くない。新たな小さな決意とともに、イエスに耳を傾けてみましょう。「自分が選択する道」が「聖なる招きによって呼び出してくださった道」でありますように、恵みを祈り、願いましょう。
思いっきり神に甘えてみては、・・用意はできていますか。
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