年間第5主日(A年)の福音=マタイ5・13~16
2023年2月5日
コロナで”災害的な状況下”で働く保健士師たち
世界で新型コロナウイルス感染拡大が始まって3年あまり。新型コロナに関する業務に、来る日も来る日も携わってきたそれぞれの地域、県の保健師たち。未だにその業務には大きな苦労が伴いつつ続けられています。
その業務内容は、相談対応や検査・受診、入院の調整など多岐にわたっているということです。(南日本新聞2023年1月29日朝刊) 感染者が増え、連日“災害的な状況”が続いた昨年は、心身に不調をきたす若手が相次いだということです。こうした中で、「横のつながりを深める場が欲しい」という現場の声がきっかけで昨年8月、オンライン昼食会が始まりました。
参加は自由で、画面に顔を出さず会話を聞くだけでもいい。リクエストのあった音楽をかけ、ランチを食べながら気ままに語り合う、という気楽な集いだったようです。場所の確保には上司の方の協力がありました。当初は週2回程度の頻度で開いていましたが、コロナ感染が再拡大したことで中断されていました。それが4カ月ぶりの去る1月19日に再開されたのです。入庁2年目の高田紗矢さん(23歳)は「先輩の顔を知ることができ愚痴も含めて自由に話せる」とリラックスした表情を浮かべていました。
鹿児島県総務事務センターの福田みゆき健康管理係長は「部屋から笑い声が聞こえることが一番の願い。対面の機会ができるまでは続け、職員の気分転換になれば」と見守っているということです。
金には換算できない奉仕の仕事は今もなお
彼ら保健師のみなさん一人ひとりは、心の内にいだいているその仕事の中身を、果たしてどのようにイメージしているのでしょうか。わたしから見ると明らかに専門職です。他の人が、簡単にとって代われる仕事でもありません。そして、その中身は「奉仕職」です。それも命にかかわるかもしれない大事な仕事です。別の言い方をしますと、他の人を生かし、それによって自分も生かされ、人として豊かになっていく温かな、本格的な仕事であるといえます。
このような仕事こそ、「お金」には換算できない業務内容があり、その重みがあり、人としての充実感を味わえる奉仕職ではないでしょうか。言うまでもないことですが、どんな職業を取り上げてもそうです。その仕事の中身をすべて「お金」に置き換えることなど、到底できるわけがありませんし、そして、基本的には全て奉仕職です。しかし、お金は大事です。だからこそ、わたしたちは元気でいることを願い、日々祈っているのです。
誰が考えてもそうでしょうが、人がみな、生き生きと明るく、そして、楽しく生きるためには、健康であることです。その始まりに当たる最先端の現場でご奉仕くださっているみなさん、それが保健師の方々です。それこそ身を粉にして当面のコロナ対策等に対応してくださってきましたし、今なお続いています。「身を粉にして(みをこにして)」とは、「労力を惜しまず一心に仕事をする」という意味です。その字の通り、「自分の体が砕けて粉になるほど努力をしている状況」という意味のある言葉です。(意味解説ノート)
「塩」「光」であり続けることはイエスの望み
今日の福音書は「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」という書き出しで始まります。
今一度注目してみたいことが、「あなたたちは……である」というイエスの言い方です。「…になりなさい」ではないのです。今のわたしたちも、「あなたたちは『…なのです』」と、呼びかけられているということです。繰り返しになりますが、わたしたちは「塩」であり、「光」なのです。「塩」であり、「光」で「あり続ける」こと、それがイエスの望みです。
わたしたち人間の世界では、ある「目標に向かって」そうなるように、生きようとする呼びかけはあっても、自分の今の「生き方を再確認する」ような振り返りは、静かに自分の中で行われますよね。これは日本人が持っているつつしみ深さでしょうか。しかし、イエスにとっては、後者の方が大事なんですね。そして、大抵の場合、自らの生き方に気づいていないのが多いのではないでしょうか。他者からひそかに耳打ちされて、初めて、今の自分に気づくことがよくあります。
自力だけでは「地の塩」「世の光」になれない
つまりは、今の自分は「地の塩」「世の光」になっていないことに気づかされてしまうのです。世を清め、世に向かって光を輝かせるどころではなく、自らの醜さ、ずるさ、卑怯な言動が表に出てしまい、周りの人々を照らし、清めるという大事な役割を、自ら放棄しているのです。
それゆえに、人々を清めることに反して、その人の心を傷つけ、汚し、踏みにじってしまうことの方が多くなっていきます。
また、光を求めて日々、喘いでいる人々に対し、逆に彼らから光を、明るさを奪い取っている場合が多いのです。このように告白せざるを得ません。こうして地が汚れ、闇がますます深まっていく原因は、「わたし」という人間のエゴイズムや欲望にあります。この世の汚れ、闇の深さは「わたし」の心に根づいているエゴイズム、欲望の深さに比例するものでしょう。
わたしたしたちはこれまでの経験上わかっています。自らの力だけでエゴイズム、欲望を抑え、この世を清め、照らすことはできないことを、・・。できるとするならば、わたしたちの心を変えてくださる神の働きかけに目覚めることです。神に立ち戻ることです。神は、わたしたちがご自分の方に顔を向けるのを待ってくれています。いつまでも、・・。
「地の塩」「世の光」であること、あり続けることが、わたしたち一人ひとりに託された「専門職」であり「奉仕職」なのです。何気ない、いつもの働きを通して・・。
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