年間第31主日(C年)の説教=ルカ19・1~10
2022年10月30日
ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとした」
今日の福音書では、また、イエスとの一つの出会いが語られています。その出会いの相手とは、徴税人のザアカイです。しかも、「徴税人の頭」であり、そして金持ちでした。その出会いは「今日、救いがこの家を訪れた」という出会いでした。つまり、ザアカイの修行によって得た出会いというのではなく、「失われたものを探して救う」方からの出会いでした。ですから、出会いの条件というのは、福音書によると、ザアカイが「イエスがどんな人か見ようとした」だけなのです。
人は誰でもその内に「欲」を持っています。この「欲」が、その人を前に押し出して、さらに前に進ませます。一般に言う「好奇心の強い人」は、自分を鼓舞する時、その仕方、する場をわきまえて行動する人が多いように思います。特に、言動のタイミングのよさには長けたものを感じさせます。アイディアも自ずと湧いてくるんでしょうね。かなり効果的な実りを期待できます。
高校グランドで障害児のための”星空の下の映画会”
「星空の下映画満喫」という見出しが目に入り、同時に懐かしさをも感じました。わたしの昔の思い出と重なってくるんです。それというのは、わたしが小学校低学年の頃、映画というものはそうそう見られるものではありませんでした。どのようにして開催されていたのか分かりませんが、「巡回映画会」と称して、住民がいる地域に巡回し、上映されていました。ほとんどがお寺乃至は神社の前庭がその会場になり、そこには大型スクリーンが張られていました。と言いましても、布団用の白いシーツを広げて張っているだけです。それでも、集落の住民こぞって見ていたものです。もちろん無声映画で、弁士さんがいたように思います。
この度企画された「星空の下の映画会」は、映画館での鑑賞が難しい障害児のために設定された映画会であるということです。(南日本新聞2022年10月20日朝刊)
鹿児島県姶良市加治木の龍桜高校グラウンドがその会場になりました。県内の各地から34家族が約100人集まり、周囲を気にすることなく、屋外スクリーンで映画会を満喫しました。普段は映画館に行くのをためらっている家族のために計画された観賞会でもあったのです。
実行委員長で、自身も自閉症の子どもがいる北村涼子さん(38歳)は「多くの協力で障がいのある子たちに楽しい思いをさせてあげられた。長く続けていきたい」と話していらっしゃいます。
きょうの福音書の中で、異邦人であるローマの人々と交わり、時には席を共にして会食することもあった徴税人は、ユダヤの社会から汚れていると決めつけられ、罪びとのレッテルをはられていたのです。したがって、先週の日曜日の福音書のファリサイ派の人の祈りの言葉「彼のようでないことを感謝いたします」は、徴税人に対する当時の一般的な気持ちを表したものであったということができます。
罪人と蔑まれていたザアカイには心の渇きがあった
人は、自分がしていることに、何か後ろめたいものを感じている人ほどに、自分の言動に自信が持てないし、他者に対して申し訳なさが大きくなります。これは古今東西を通じての、人間の共通な思いではないでしょうか。
イエス時代の徴税人も、人からは軽蔑に満ちた目で見られ、多くの人の冷たい視線を感じつつ日々を送り、歯を食いしばり、辛い気持ちの毎日だったのでしょう。それが当時の徴税人の心の内であったのではないでしょうか。きょうの福音書のザアカイも同じような一人でした。表向きは元気そうに見えて、活気あるように振舞っていても、心のうちはどうだったのでしょう。その心のうちを感じさせてくれるのが、今日のザアカイの言動に表れているといえないでしょうか。
このような境遇にあれば、人のあたたかさ、やさしさへのあこがれというか、それらに接してみたいという願望を抱くのは無理もないことです。イエスのうわさを聞いてすぐに思い立ったのが、「イエスがどんな人か見ようとした」のです。その願望はさらにエスカレートします。背が低かったので木によじ登ろうと決め、そうしたのです。そこまでしても「見たかった」のです。彼をそこまで駆り立てたもの、それは何だったのでしょうか。
イエスの優しさ、心の広さ、強さ、当時の人々とは違った温かさは何だろうという好奇心以上に、彼の心には「渇き」があったのではないでしょうか。それも「救い」への渇きです。冷たく固まってしまっていた彼の心に、イエスは語りかけます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と。冷たく固い彼の心がやっとほぐれます。彼の願望が心身ともに満たされたのです。すぐに従います。
動機づけを感じ、その目標達成を願い、行動すると
イエスに敵愾心を抱いているであろうファリサイ派の人々、また、徴税人たちを軽蔑する多くの人びともいたでしょうに、彼らの前で「罪びと」と称される「ザアカイの家に泊まりたい」と、イエスは大胆にも公言したのです。そして、会食を共にするということは、当時の社会では、今でも同じでしょうが、互いの心の交わりを意味します。これはザアカイにとっては素晴らしい体験であり、罪びとの重荷を担おうとするイエスのあわれみと愛を体験する出会いであったのです。ひいては一人も滅びることを望まないおん父の愛との出会いでもありました。これにより、ザアカイの心はその命を吹き返しました。そして告白します。「主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』」と。救われたのです。
何事も、何かの動機づけを感じ、その目標達成を願って試みるとき、それは叶います。きょうのイエスは、このことを教えているように思います。そのために一日一日を大事に、わたしたちは望んでトライしてみることなのです。最後に「わたし」の望みを完成させてくれるのは神だからです。「星空の下の映画会」は新たに次への意欲が膨らんできました。多くの人の援助をもらいつつ、いつまでも長く継続していこうという願いです。
想像以上の実り、力を新たに見出だし、気づかされます。味わうことができるのです。期待していた以上の「実」を摘むことができます。
わたしたちに求められる条件は、ただ、「強く望ん」で日々「トライして」みることです。
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