年間第29主日(B年)の説教=マルコ10・35~45
2021年10月17日
今年のノーベル賞が決まりました。ノーベル賞は、1895年に創設され、1901年に初めて授与式が行われました。一方、ノーベル経済学賞は1968年に設立され、1969年に初めての授与が行われています。
賞設立の遺言を残したアルフレッド・ノーベル(1833年10月21日 – 1896年12月10日)はスウェーデンの発明家・企業家であり、ダイナマイトをはじめとするさまざまな爆薬の開発・生産によって巨万の富を築いた。しかし、爆薬や兵器を元に富を築いたノーベルには一部から批判の声が上がっていた。1888年、兄のルードヴィがカンヌにて死去するが、このときフランスのある新聞がアルフレッドが死去したと取り違え、「死の商人、死す」との見出しとともに報道した。自分の死亡記事を読む羽目になったノーベルは困惑し、死後自分がどのように記憶されるかを考えるようになった。1896年12月10日に63歳でノーベルは死去するが、遺言は死の1年以上前の1895年11月27日にパリのスウェーデン人・ノルウェー人クラブにおいて署名されていた。
この遺言においてノーベルは、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」と残している。
今年のノーベル賞受賞者の中で、特に、わたしにとって二人の人が気になります。それは、ノーベル平和賞受賞の、ロシアでプーチン政権に臆せず調査報道を続ける独立系新聞「ノーバヤ・ガゼータ」のドミトリー・ムラトフ編集長と、フィリピンのドゥテルテ政権に批判的なニュースサイト「ラップラー」を率いる女性ジャーナリスト、マリア・レッサ氏です。(南日本新聞2021年10月10日朝刊)
ノーベル賞委員長の発言に注目したい
ノーベル賞委員長のレイスアンデルセン委員長が、単独会見で指摘している発言内容が注目されます。発言ポイントは以下の通りです。
- 世界各地で報道機関への弾圧が強まり、表現の自由は絶滅危惧種に。
- 報道は民主主義の発展の土台であり重要。
- 受賞が決まった二人は強権政治の下でも事実を記録して伝えてきた。
- 独裁的指導者が記者を嫌うのは、自らが伝えたい「事実」と異なるメッセージを発信するからだ。
ノーベル賞の受賞者のみなさんは、どの人を取り上げても、それぞれが苦労の連続で、すぐにはみなに認められることも無く、時間をかけて積み上げてきた実りが、この賞であったということになります。いうなれば、自己の幸せよりも他者の幸せのために費やした時間と労力の結晶が、この賞でもあるといえないでしょうか。やはり最後には、勤労の実りは自らに戻ってきます。
物理学賞の真鍋叔郎さんは淡々として
ノーベル賞はその歴史と伝統などから権威が高く、ノーベル賞に部門のない分野における権威のある賞が「〇〇のノーベル賞」と呼ばれたり、不可能に近いことやきわめて困難なことの例えに比喩的に「ノーベル賞」が使われたりします。例えば、「それができたらノーベル賞を取れる」などです。しかし、当初、彼らはそうした「栄光の座」を目指したわけではないでしょう。ほんの素朴な動機から始まったものが、結果を見ると、何かどでかいことをしでかしていたということになっただけなのでしょうか。
彼らの中にあったのは、俗っぽい野心、権勢欲などではなく、自らの能力を駆使しての奉仕だったのではないでしょうか。あくまでも、多くの人のための奉仕だったのです。そのために、努力を惜しまなかったのです。地球温暖化を予測する気候モデルを初めて考案した物理学賞の真鍋叔郎さん(90歳)は、「好奇心を満たす研究を続けてきただけだ」と、いとも簡単に言っておられます。
ご自分の右と左に座らせてほしいと、二人の弟子から頼まれたイエスは、どんな思いを抱かれたのでしょうか。また、そのことを知った他の弟子たちはどうでしょう。彼らの心を動かしている俗っぽい野心、競争心は、イエスの身近にいて特別な指導を受けてきたにもかかわらず、イエスのことを理解していないことの表れではないでしょうか。
イエスが弟子たちに求めた生き方とは?
イエスは今、十字架の道へとその歩みを進めているのです。ご自分とともに歩んでくれることを願ったとしても、彼らには無理な話なのでしょうか。このような状況に置かれていても、イエスは「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」ことを片時も忘れません。
イエスが弟子たちに望まれる生き方は、「自己犠牲」、そして「他の人の幸せのために」生きようとする生き方でした。
イエスの原動力になっているのは、牧者のいない羊のように疲れ切って、ぐったりしている人々を憐れに思う心なのです。どこまでも人々を愛し続け、忘れることができないみじめな存在者・人間から目をそらすことができないのです。そのように大事にされている「わたし」なのです。
イエスに代表されるように、人は基本的に人のために生きることに幸福感を味わい、そして、ともに喜びあえることに生きる価値と喜び楽しさを覚えるのではないですか。とはいっても、イエスのように全き「自己犠牲」「自己放棄」に達することができない自分の現実を前にして、少なくとも、そのように生きようと努める者になろうとしているか、・・どうか。
あのノーベル賞受賞者が「好奇心」の向く先を追い求めたように、わたしたちも信仰と神への、それがわずかであっても、感じている「好奇心」を見つめることから始め、そして膨らませていきましょう。それは何、・・・?
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