年間第23主日(B年)の説教=マルコ7・31~37
2021年9月5日
コロナ感染新ステージ下で始まった新学期
新型コロナウイルス感染も、新たなステージ、それもあまりよくない状況になってきました。特に、学校現場では学びと感染対策の両立に苦慮しているとのこと。様々な対策が講じられているようですが、これといって絶対的に大丈夫という方策はないでしょう、・・ね。
さまざまな工夫を凝らしたとしても、子どもたちの行動力は大人の想像をはるかに超えています。その上、発想力も違いすぎます。よって、大人の思いと子どものそれとが、上手くかみ合わないのです。その時に起こるさらなる悩み、苦しみが、また、新たな問題となって、今の子どもたちを襲います。それが何かといえば、夏休みが終わり、二学期が始まる前後の「自殺」問題です。何がどうしてそうなるのかわかりませんが、子どもの「心理的な負担」が高まる時期がこの時のようです。それが最近、大きな社会問題になっています。(南日本新聞2021年8月31日朝刊)
いずれの地区地域でも同じように対策を考え、解決への道のり発見に苦慮していることだと思いますが、鹿児島県でも、官民の相談窓口が増え、また、電話や会員制交流サイト(SNS)で受け付けを行なっています。自分のお子さまの、そうした心理的な苦しみ悩みに気づいている保護者が、新たな苦しみを味わっているという現実も発生しています。一つの出来事から他の新しい問題が生じてくるということが、その対処の難しさを物語っているのではないでしょうか。
子どもの何気ないひと言が「SOS」かも!
県内からの相談は昨年の月別件数で、8月が最多の229件あったそうです。18歳以下が匿名で利用できる「チャイルドライン」で受けた件数です。山崎眞子(49歳)チャイルドライン副代表は、周囲の大人に対して呼び掛けています。「子どもの何げないひと言がSOSかもしれない。注意を向けて短時間でもまず向き合ってほしい」と。
県が開設した「かごしま子ども・若者総合センター(ひきこもり地域支援センター)」の藤原奈美センター長(46歳)は「自分たちで解決しなければと悩みを抱えこんでいる親が、SOSを出すことも大事。子どもは親の気持ちを背負いがちで、そのプレッシャーが減るだけでも子どもは救われる」と話しています。
人生、いつも順風満帆というわけにはいきません。必ずといってもいい、窮地に立たされるとき、出来事があります。その時に、わたしたちはどのように振る舞っているでしょうか。何に、誰に癒しを求め、打開し、乗り越えているのでしょうか。こうした紆余曲折な人の歩みは、時代に関係なく、人の世が続く限りあり続けるでしょう。そして、辛い、悲しいことばかりかというと、そうでもなく、楽しく、嬉しいこともたくさんあります。
きょうの福音書は、多くの「闇の中を歩む民」(イザヤ9章1節)に多いなる光を与えてくれたイエスの話が語られています。その書き出しに注目してみましょう。ツロ、シドン、デカポリス、そしてガリラヤは、異邦人の地、闇と死に覆われた地として語られてきました。その地を巡るイエス、通り過ぎるだけでなく、そこの人々に新しい希望と光を与えられるのです。
「闇の中を歩む民」に新しい希望と光が
「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」(マルコ7.32-35)
のです。
イザヤ書に記されているメシアの姿が、今、イエスの中に具現化しているのだとマルコは言いたいのです。病人に対する同情と言うよりも、病の深刻さ、悲しさのあまり、神に呼びかけているイエスの心情にあふれた業であるといえます。イエスは、人がかかえている苦しみの重さをご存知なのです。それにより、一人ひとりの生命が押しつぶされてしまっていることもご存知なのです。だからこそ、「その人に向かって、『エッファタ』と言われた」のでしょう。
この言葉により、「やみ」は去ります。自ずと人は感動と喜びをすべてに表現します。そして人々にこう言わしめるのです。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」が人の常か
人は「自分は恵まれている」と感じる度合いにより、感謝の表現、度合いも変わります。恵んでくれた人が特定されていなくても、また、なぜかその理由が分からなくても、自然に感謝の心が湧きでてきます。形だけの、表面だけで終わることはありません。心底「ありがたい」と感じるのです。
しかし、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉があるように、困ったときに受けた恩義も、楽になると忘れてしまうのも人間です。それでも、人が生きているのは、自分のためだけでなく、他者のためにも生きているのです。
神さまにはお願いばかりが多いのですが、それだけ苦しいことが多いということでしょうが、感謝することも多くありたいですね。それにしても、神さまにお世話になっていると感じているのでしょうか。
人への「義理」は敏感ですが、神への「義理」(?)はどうなっていますか。
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