受難の主日(B年)の説教=マルコ15・1~39
2018年3月25日
「マインドフルネス」という言葉を発見
「自己啓発」「心の筋トレ」など、自らを鍛え、訓練する課題がよく取り上げられます。いわゆる、心の訓練法が注目を浴びています。「生活調べ隊」のコラム記事の中に、「マインドフルネス」なる言葉を発見しました。(讀賣新聞大阪本社、2018年3月20日朝刊)
「背筋を伸ばし、呼吸に意識を集中してください」。東京都千代田区のヤフー本社で、社員10名ほどが車座になっています。ガイド役の声をきっかけに、めいめいが瞑想を始めました。ヤフーが2016年から、希望する社員に向けて行っているマインドフルネスを取り入れた研修だそうです。
マインドフルネスは「心の筋トレ」とも言われます。筋肉トレーニングと同じように何度も繰り返すことで、集中力を高め、リラックスした精神状態になれるといいます。筑波大特任助教(スポーツ心理学)の雨宮怜さんによると、代表的な訓練が「呼吸のワーク」だそうです。呼吸とともに生じる体の動きや様子を感じるものです。例えば、「息が鼻の穴を通って出て行った」など、体から出て行く息と、入ってくる息をそのまま感じるのです。分かりやすいのは、お腹が膨らんだり、へこんだりする感覚です。
呼吸法で集中力、自己統制などに効果
注意がそれることもあるでしょうが、その際には「今注意がそれたなあ」と気づき、意識を再び呼吸に向けなおすのです。また、瞑想をしている際に、「上司に理不尽なことを言われた」などの雑念が浮かんだとします。それを無理して頭の中から消そうとしないことです。また、良いとか悪いとか評価もしないで、「理不尽なことを言われたことを思い出したのだなあ」と、ただ客観的に観察し、意識を又呼吸に戻すのです。
確かに自分のためにプラスになることは大いに期待できます。集中力アップ、ストレス解消など、自己統制力を高め、衝動を抑える効果も期待できるといわれます。その上に大きな効果は、自分の感情を客観的に観察することで、平静な態度がとれ、「他人への思いやり」が育まれるということです。この「他人への思いやり」の育みが、この訓練の最終的な目標であるところに、大いに意味があるのではないかと思うのです。
人はいつも他者に開かれた状態が通常
わたしたちの存在そのものは、自分のためにというよりも、いつも他者に開かれた状態にあるのが通常なのではないかと思っています。ここに生きている評価を見出すことができるのではないでしょうか。別な言い方をすれば、他人が喜ぶ姿を見て、自分も嬉しくなることってありませんか。特に、親子の関係においてはそうではないかと思いますが、・・・。
今日は受難の主日です。イエスの受難と死に関する話が、今日の福音では朗読されます。この世で、わたしたちは、命を受けている限り、すべての人が「死」を迎えます。また、その死は、特に親しい人々にはかなりの影響を与えてしまいます。がっかりさせます。元気をなくしてしまいます。
生きていることがいかに重大なことなのかが、その存在がなくなって初めてわかります。逆な言い方をいたしますと、生きてきたこと自体がメッセージを発信していたともいえます。イエスさまの場合は、まさに、人類のためにこの世に来られ、その命を捧げて、ご自分の使命を全うされたのです。その一挙手一投足が、わたしたちへの強力なメッセージであったのです。その究極のメッセージの中身は「神の子」であるということです。
イエスの受難に神の子らしさはないが・・・
受難とそれに続く死の中で、「神の子」らしい姿をどこかに見いだし得るかといえば、「まったくなし」と言わざるを得ません。それでもマルコは「まことにこの人は神の子であった」ということばで、今日の福音を締めくくります。よわよわしく、みすぼらしい姿のイエスさまの中に、表に出てこないイエスさまの人類に対する愛、慈悲をマルコは見てとるのです。つまり、外に見える形の中に「神の子」としての力強さはないとしても、その愛、慈悲の心に本物の姿があると宣言しているのです。
弱々しい十字架への道のりが神の愛
親の愛は時として、外的には弱々しく見えますが、子どもにとっては大きな励み、前に進む力となってこどもに宿ります。いかなる苦しみが続いて来ても、イエスさまはわたしたちの救いのために耐えて、前に進むのです。弱々しい十字架への道のりが、本当は、見える神の愛の力強さでした。
わたしたちにとって、日常の生き方の中で、人の感覚としては無意味に見えても、無駄に感じられたとしても、必ず前向きのメッセージが込められているそのものを、注意深く会得できますように。それが、他者に開かれている「わたし」の存在理由です。一人ひとりがそうです。
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