四旬節第5主日(B年)の説教=ヨハネ12・20~33
2018年3月18日
東日本大震災から7年、被災者の生きざまから
東日本大震災が発生して7年の月日が流れました。震災による死者・行方不明者は、震災関連死も含めて2万2千人を超えています。(讀賣新聞大阪本社、2018年3月12日朝刊)いまだに避難生活を強いられている方が、7万3千人に上っています。震災関連の紙面の内容は、「いのちの大切さ」「生き続けることの重要性」「亡き両親への感謝」等で満たされています。
辛さ、苦しさを抱えながら生きてこられた方で、大震災の後に生まれ、育っている世代に、記憶を語り継ごうとされている遺族の方がいらっしゃいます。復興途上の被災地で、震災としっかりと向き合い続けて生きておられます。その方とは、宮城県石巻市の狩野あけみさん(49歳)です。当時、石巻市立大川小学校6年生だった三女の愛さん(当時12歳)を津波で亡くされました。
大震災の「語り継ぎ」に奉仕する人も
あけみさんは、長女の子ども蓮翔君(2歳)が遺影に手を合わせる姿やその成長ぶりを目にするたびに、「愛のことを蓮翔にも伝えたい。きっと、もう理解できるはず」と思うようになったといいます。
その語り継ぎの手段に選んだのが、絵本の読み聞かせでした。絵本のタイトルは「ひまわりのおか」でした。この絵本は、大川小学校を襲った津波でわが子を失った、あけみさんら母親8人の思いがつづられているものでした。しかし、いざ絵本を読み始めると「ああ、愛はいないんだ」と改めて実感し、言葉が途切れてしまいます。7年たっても、心の整理がついていない自分は全く変わっていなかった、と語っていらっしゃいます。
心の整理はついていないが、それでも!
だからこそ、今年も、震災発生の時刻になると、あけみさんは、愛さんが遺体で見つかった付近に小さな花束と線香を地面に供え、慰霊碑の前でも手を合わせました。そして、震災を知らない世代の子どもたちに語り継ぐことが、将来の災害に備え、命を救うことにつながると信じていると語ります。
人のいのちは重いです。我が子に対しては特に、嬉しさと、ありがたさと喜び、希望、明るさ、いろいろなことを覚えるのではないでしょうか。身近に一緒にいるのが当たり前だと思っているだけに、いなくなると、ポッカリと穴があいたように空虚感を抱いてしまいます。それだけ自分の存在に影響していたことが分かります。親子関係の美しい姿がここにあるような気がします。言葉に出さなくても、お互いが、その存在価値を評価しているのです。
身近な人の死を乗り越えることは辛い・・・
とはいっても、この地球上に人間が現れて以来、みなが等しく、例外なく「死」を迎えます。死の形がどうであれ、一人の人の死は何がしかの影響を周りにいるわたしたちに与えます。その方との関係のあり方により、受ける影響の度合いに違いが出てくるということも経験上わかります。
はたして、イエスさまの死はどうなんでしょうか。「わたし」にとっていかなる影響力があるのでしょう。四旬節を過ごしているわたしたち。その影響がどのような作用を「わたし」にもたらしているのか、世界の人びとにとってどのような意味を持っているのでしょうか。その幾分かを示すために、イエスさまは今日の福音で弟子たちに語りかけます。「もし、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、死ねば、豊かな実を結ぶ」。続けて言われます。「この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」と。
イエスがみことばで伝えたかったことは?
イエスさまはこのみことばで何を伝えたいのでしょうか。わたしたち人間は、生への根強い愛着があり、自分を幸せにしたいという強い望みがあります。そのために、他人を押しのけたり、平気で傷つけたり、引きずり降ろしたりしてしまいます。これが大人だけでなく、最近は年齢層が若くなって、小中高生のレベルにまで下がってきています。なぜって、その見本を大人が見せているからです。
自分中心から「神中心」の心への転換を
イエスさまがおっしゃりたいことは、こうした利己的な自己愛、利己愛の放棄を促されています。人間としての喜び、幸せを捨てることがいかに辛いことであるのか、イエスさまはよくご存じです。そのためにご自分は死んでいくのである、とおっしゃりたいのです。そう言いつつも、イエスさまご自身、「心が動揺して」いるのです。やはり苦悩されます。しかし、その辛さを乗り越えて一歩前へ進まれます。だからこそ、わたしたちにも「自己放棄」を勧められるのです。
自分を中心とした心の動きを否定し、神中心の動きがある限り、周りへの影響力は増大します。他者にいかに踏み台にされたとしても、その人の命の尊さに、重さに傷はつきません。逆に、豊かな実をもたらします。
少しずつ前に進めますように、・・。
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