聖家族(B年)の説教=ルカ2・22~40
2017年12月31日
「家族」に繋がるイメージは一家団欒では
キリストご降誕後の最初の日曜日は、聖家族の祝日になっています。「家族」と言いますと、昔から、その言葉につながるイメージは「一家団欒」でした。最近になりまして、あまりこの言葉もきかないし、そうした雰囲気もなくなってきたのではないかと感じておりますが、・・。ちょっとばかりさびしい気がしますね。
あるとき、カトリック信者さんではない方に尋ねられたことがあります。「クリスマスは若いカップルが一緒に食事したり、素敵な場所で語り合ったりと、こうしたイメージが強いですが、クリスマスと関係があるんですか」と。まったく関係はありませんよね。むしろ、キリスト降誕の祝日は、それこそ家族がそろって集まり、一家団欒のうちに過ごすことを大事にしてきたといえます。
この「一家団欒」の必要性、大切さは、赤ちゃんが未だ話すことができない時期に遡ることができるのではないかと思っています。
親子のコミュニケーションは徐々に進化
世界中どこの国の赤ちゃんも言葉は話せず、どちらかといえば泣いてばかりいるような気がします。当たり前のことながら、話しかけても応えてくれません。初めてのお子さん育てをなさる親御さんにしてみれば、不安を感じてしまうこともあるのではないでしょうか。そのような時には、赤ちゃんの顔を見ながら舌を出したり、口を大きく開けたり、顔をしかめたりと、いろいろな表情をしてみることだといわれています。そうすると、赤ちゃんも、同じように口を開けたり、顔をしかめたりするようになるそうです。実際に祖父母さんのほとんどは、そのようなことをお孫さんの前でなさっているのではないでしょうか。言葉によるコミュニケーションはできなくても、表情のやりとりだって赤ちゃんとの立派なコミュニケーションです。
6ヶ月が過ぎてきますと、親御さんからだけでなく、赤ちゃんの方から、お母さんの注意を引き付けようとするそぶりを見せるようになるといいます。ただただ、お母さんとのコミュニケーションをとりたくてたまらないのでしょう。この赤ちゃんのうずうずしている姿に気付けば、赤ちゃんの子育てが楽しくなっていくのではないんでしょうか。そのうちに、初めて見るようなものに関心を示し、それは何かと問いただしてくるようにもなります。「表情」「仕草」による親子団欒のひと時が始まります。この時は、やはりなんといっても楽しいのではないでしょうか。
赤ちゃん育ての時は、親御さんが赤ちゃんの小さな動き、変化に注目しているがゆえに、「親子の団欒」が広がり、いい雰囲気になっていきます。ところが、この状況が年を重ねていくと共に薄れていき、また、社会の環境の変化もそれに拍車をかけてきます。徐々に、団欒の絆が細くなり、ゆるめられていきます。
子どもの親離れは、親にとっては試練?
確かに、子どもは親のものではありません。親から離れて、いずれは自分の人生を築き歩んでいくものであるということはよくわかっています。それでも、何か燃焼しきれないままに離れ離れになっていくことが、やるせなくなっていきます。親御さんにとっては辛いことでしょう。子どもの親離れに関しては、親御さんはなんとなく察知できると聞きます。それだけに完全燃焼できたらいいですね。
ところで、これに関して、マリアさまとヨセフさまはどうだったのでしょうか。今日の福音書に語られていることは、イエスさまの神殿奉献です。神殿に上るということは、子どもが神のものであるということを宣言することと同じことでした。これがユダヤの習慣だったのです。「初めて生まれる男の子はみな、主に聖別されたものである」と。そして、これに続く「エルサレムへの巡礼」において(ルカ2章41節以下)、マリアさまとヨセフさまの親としての辛さが頂点に達します。イエスさまの12歳のこの年に神殿に上るということは、イエスさまの両親は、神からの預かり者として「子育て」をしますという決意を、新たに、神に向かって表明した神殿奉献だったのです。
こうした矢先の出来事です。神殿からの帰途、イエスさまが行列の中にいなかったのです。両親の心は大いに痛みました。しかも、「どうして、わたしをお捜しになったのですか。わたしは父の家にいなければならないことを、ご存じなかったのですか」と、逆に問い返されます。
マリアさまとヨセフさまは家族団欒を大事にし、伝え、語っておくべきことをその時にはたしてきたでしょう。それでも、やはり親として、子離れを体験します。その中にあって、母は「これらのことをことごとく心に留めていた」のです。
コメント