待降節第1主日(B年)の説教=マルコ13・33~37
2017年12月3日
教会歴の新しい一ページが始まります。待降節に入りました。
待降節の初めに当たり、信仰の新たな一歩を
「新しくなる」ということは、今まで生きてきた歴史の上に、さらに、新たな一歩を、その軌跡を記していくということでしょう。新しい半紙に、新しい筆で、新しく文字を書いていきます。年を重ねるにしたがって、成長した文字になっていきますように願いつつ、同時に、人生の、信仰のさらなる一歩を刻んでいきたいです。
春に萌えた新芽が初夏に花咲き、秋に身をつけるのは、遺伝子が設計した筋書きであり、これはいかなる気候の変化があろうと決して変わることはありません。しかし、人の成長は筋書きのないドラマであるとよく言われます。今年の待降節を始めるにあたり、「わたし」の信仰者としての成長ドラマの筋書きはどのようにできあがるのでしょうか。
「生長」と「成長」の違いに大きなヒントがある
ところで、ご存知の通り、「成長」と「生長」の間には大きな違いがあります。「生長」のメカニズムでは、リンゴの木に梨が実ることはありません。が、「成長」のメカニズムでは、リンゴの木から梨どころではなく、ナス、カボチャなどができてしまうのです。「成長」には、きめられたコースがあるのではなく、人(親であり、友人等)との交わりを通して結実していくものだからです。これは「人」である限り、年齢に関係なく性別にも関係ありません。勝手に、立派に成長するということはないのです。
子どもを叱るとき「生長」を期待してはいないか!
にもかかわらず、「どうしてこんなことができないの」「なぜ、言ったとおりにしてくれないの」とガミガミ叱りつけて子育てする親御さんを見かけます。明らかにいらだっています。そのいらだちの正体は何でしょう。子どもが、自然にスクスクと成長しないことに対する不満でしょうか。いつまでも花を咲かせないからでしょうか。わが子の成長を花の生長と同じように考えているのではないでしょうか。そう考えますと、叱るのは、わが子に「成長」ではなく「生長」を期待しているしるしと言われても仕方がないような姿に見えます。
人の育ち、信仰の育ちは定型ではない時間がかかる
子ども育ち、人の育ちはゆっくりとした歩みをたどります。決して慌てることなく、それでいて確実です。その人がどのような歩をするかによって、その人らしさ、人となりが養成され、熟していきます。時間がかかります。本人にとりましても、周囲の親御さん、大人にとっても楽しみであり、希望のうちに期待しています。時間経過の中で、多くの人との交わりを経て、その人は、人としての実りを結ばせていきます。
信仰者としての育ちも、人の育ちに比例するかのように、徐々に高められていきます。信仰は成長していくのです。
ところで、イスラエルの人々は今日、「目をさましていなさい」と呼びかけられています。何に目を覚ましていなさい、と言われているのでしょうか。主人がいつ帰ってくるのかわからない門番にとって、「目を覚ましていなさい」と命じられたからには、眠っているのを見つめられることのないようにしなさい、ということです。「いつ」つまり「その時」とはどんな時なのでしょう。
イスラエル人は2000年間もその時を待っていた
それは「救いの時」です。イスラエルの人びとにとって、救いの時が訪れるという確信は、その心から失われることはありませんでした。それは、二千年にわたって受け継がれてきた確信だったのです。今のわたしにとりましては驚きでしかありません。それこそ、アンビリーバブルな出来事にうつります。それだけ信仰厚いイスラエルの民を感じます。彼らの心の奥には、「神は、わたしたちの父」という思いが根強く、「わたしたちはあなたに創られた」という誇りが、確信の保証になっているのでしょう。
必ず実現するという確信が受け継がれてきた
そうです。「わたし」が今、ここにいるのは神の業なのです。神とのかかわりがあって初めて、わたしたち一人ひとりは存在し、神は、父としてわたしたち子を見捨てることはなさいません。できないのです。子の不幸を見て、逃げ去る親はいません。だからこそ、願ったことは必ず実現するのです。これが、イスラエルの民に確信となって語り継がれていったのでした。信仰は伝達されて受け継がれ、さらなる発展、成長を遂げていきます。今も同じであるとえるでしょう。わたしたちは語り継いでいるのでしょうか。
小さなイスラエルの民が、「人類の救い」という大きな影響力を与える存在になっていきました。彼らの中に生き続けている信仰心の凄さに、忍耐力に、今に生きるわたしたちは「目覚めて」いきたいですね。
信仰の「生長」ではなく「成長」を期待し、願いつつ。
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