年間第7主日(A年)の説教=マタイ5・38~48
2017年2月19日
人の関心事は時代によって移り変わっていく
わたしたち人間の、一人ひとりの関心事は、所、時、年齢によってさまざまでしょうが、・・。そして、それは「わたし」の中で変化し、また、時代の推移により変遷していきます。同時に、事によっては、より現実的になり、実現のために工夫するようになり、知恵がついて「わたし」がより賢明になっていきます。
万人共通の望みは平和の訪れ
とはいいながら、万人に共通な、共有したい望みは、この地球上に「平和」が訪れることではないでしょうか。いつの時代も、「平和」は脅かされてきました。戦争、殺人事件等、平和を壊す出来事が後を絶ちません。歴史家が言うには、文明が始まって以来、今日に至るまで、世界で戦争がない年はわずかしかないそうです。世界のどこかで毎年戦争があり、無くても殺人事件等により、流血の出来事が頻発しています。
平和の持続、発展には互いの権利の尊重が不可欠
「平和」を共有し、持続、発展させていくために大事なこと、置き忘れてはいけないことがあるように思います。それは、互いの「権利」を理解し、尊敬しあうことではないでしょうか。それによって、「平和」と、そして「秩序」が保たれてきたということができます。
自己の「権利」だけを主張することにこだわる限り、どうしても自分の「エゴ」が頭をもたげてきます。権利と権利の張り合いになってしまいます。そうなると、相手を無視してしまい、傷つけてしまい、挙句の果ては「いさかい」に発展しまいかねません。当然の帰結として「平和」が失われていきます。
争いの根底にあるものは、わたしたちのエゴイズム
個人のぶつかり合いが発展し、国と国との関係になったときに戦争になります。ここにも、その根底には、わたしたちの心奥に潜んでいる「エゴイズム」があるといえないでしょうか。悲しいかな、こうあってほしいというあるべき姿はわかっていても、現実は人間の欲望と欲求を無理やりに押し通そうとする「他者の権利」への踏みにじり行為となっているのです。特に、社会の平和と秩序の基盤は、互いの権利の尊重だけでは十分であると言えないということでしょうか。
「目には目を、歯には歯を」は無制限の復讐への歯止め
こうした行為に対して、古代中近東の世界は、「目には目を、歯には歯を」という原則をつくっていました。これは、復讐することをすすめたのではなく、無制限の復讐に歯止めをかけるものでした。すなはち、被害を受けた以上のつぐないを要求することを禁じたのです。この原則は今の社会でも大事にされているようですが、・・。
絶対的平和の基盤は「天のおん父の心」
そして、今日のイエスさまは、ゆらぐことのない絶対的な平和の基盤があると言われます。天のおん父の心です。その心はどのようなものなのかが言われています。「天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださる」のです。さらに、天のおん父は善人よりも、むしろ、悪人に心をかけておられるように見えます。悪人は、神からの恵みを拒絶し、自分の好き勝手に生きようとしているにもかかわらず、天の父は知らない振りができないのです。
イエスが大切にしていたのは「おん父のこころ」
しかも、人の救いのために派遣されたイエスさまも、ご自分が神であることにこだわることなく、その身を渡されました。もし、イエスさまが、自分の「権利」を主張していたとすれば、わたしたちの救いは実現していなかったでしょう。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13)生き方が、イエスさまが大切にしていたものでした。その源泉は「おん父の心」です。
イエスさまのこの生き方があるからこそ、不十分な「わたし」でも、平和実現の担い手になることができます。一人ひとり「平和」への関心度に温度差があっても、・・。
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