待降節第2主日(A年)の説教=マタイ3・1~12
2016年12月4日
「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」(マザーテレサ)
「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」とおっしゃるのは、今年列聖されたマザーテレサの言葉です。みなさんもお分かりのように、ことばとしての反意語としては正しいとは言えないでしょう。しかし、どこかで納得してしまう自分があるのも事実ではないでしょうか。
皮肉なことに、「命を大切に」と叫べば叫ぶほどに命が粗末にされている現状があるような気がします。特に幼い、小さな命です。命の大切さ、尊さを語り継いでいくために、学校等多くの公共教育施設では工夫を凝らしているようです。がしかし、あまりにも「方法論」にこだわり過ぎではないかという感じがしないでもありません。教育現場の詳細は分かりませんが、人が生きている現場は、すべて「教育現場」ではないかと思うからです。
すべての出発点は親子間にあるのでは
基本的には、すべての出発点としては、親子間にあるのではないでしょうか。「胎教」「三つ子の魂百まで」という表現は、まさに、そのことを言い表しているような気がしてなりません。そして、なによりも言えることは、子どもは皆、その親御さんに似てくるという現実です。姿勢でいうならば、特に後ろ姿が、・・。
子どもは幼少時代より、否、お母さんのお腹にいるときから親御さんの声を聞き、息づかいを感じてきたのです。自己判断ができないその時期に培われたもの、影響されたことが成長するにつれて、子どもの姿に、生き方に具現化されていきます。いつの時代も、子どもは親の鏡です。
人は関心があれば待つことができる
自分を含め、人の歩み、成長は遅々たる動きかもしれません。しかし、「成長」に関心があれば待てます。関心があれば愛をもって子どもの成長を見守ることができます。それが、単に動物ではなく、人間であることの品格でしょう。通常「待つ」ということは、何もしないで待つのではなく、期待しながら、ワクワク感をもって待つことが多いのではないでしょうか。だから待てるのです。
「天の国が近づいた」とヨハネは叫びます。つまり「救い主が来られる」と言われ続けながらも、なかなか実現しない歴史を体験してきたイスラエルの人びと。預言者たちが何度も繰り返し救い主が来られると叫び続けても、文字通り実現したことなどありませんでした。期待がむなしく裏切られていくだけだったのです。
期待が裏切られても、イスラエルの人々は待ち続けた
しかし、それでも彼らは絶望しないのです。信じ続けてきた信仰、思いを次世代へと語り継いでいくという手段に切り替えていったのです。本物を見つめる「目」を育て、学んでいったのです。これこそ、人間にしかできない、神と生きる体験をしてきたイスラエル人だからこそできた生き方でした。
この信仰の基盤が培われたのが旧約時代、待降節の期間に集約されています。このことに無関心であるとすれば、神への愛、人への愛が育つことがなくなります。こうして、望みのない時にも望みをかけていく信仰を、彼らの生きる土台として培っていったのでした。必然的に神への希求度は高められていったのです。
無関心を遠ざけて交わりの中に入りましょう
わたしたちの日常ではどうでしょうか。イスラエルの人たちにとっては、「待つ」ことが日常になっていきました。いつもの生活の中で神を感じ、人への関心を高めていければいいなと感じております。洗礼者ヨハネの宣教は、今に生きるわたしたちに、今の時代に合った信仰の土台を築くように促しています。「悔い改めにふさわしい実を結べ」。そのために待つのです。回心できるワクワク感をもって、・・。
極力無関心を遠ざけ、それこそ無視し、交わりの中にともに入っていきましょう。互いの関わりを通して愛の心を深く豊かに、そして、大きくしていきたい。その上で、キリスト誕生の出来事に遭遇したいですね。
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