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年間第22主日:日常の小さな行いの積み重ねがイエスの十字架に繋がる

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2017年説教の年間テーマ「神のふところ」

【神のふところは限りなく大きい】

年間第22主日(A年)の説教=マタイ16・21~27

2017年9月3日

楽しい「夏祭り」報道で見えた人間模様から

子どもたちの長い夏休みも終わり、恒例の「夏祭り」も賑やかに、楽しく過ごし、新たな体験を重ねるいい機会になったことでしょう。

参拝者のマナーの悪さで存続が危ぶまれる祭りも

みなさんもご存知のように、大阪には有名な「三大夏祭り」があります。先日は、四天王寺支院の愛染まつりの存続が危ぶまれているとのニュースが流れていました。大阪の三大祭りの一つです。参拝者のマナーがあまりにもひどいということで、翌朝の境内は空き缶、食べ物の残り物、ビールケースまで置き去りにされている始末です。お寺の住職さんはじめ、お寺の近くに住んでいらっしゃる方々が迷惑しているというのです。しかも、悲しいかな、若くて、その上、未成年者がその中心になっているとか。

一方で、全く違った若者の話も聞きました。小学生の娘さんと一緒に、祭りに参加したあるお母さんから聞いた話です。綿菓子の出店の前で並んでいた時、急に雨が降ってきたそうです。そのお母さんたちは傘を持ち合わせてなかったのですが、すぐやむと思い、並び続けたんだそうです。しかし、雨が強くなる一方で、どうしようかと迷ってしまいました。

二人連れの女子中学生が傘を貸してくれる美談も

その時、すぐ前にいた中学生くらいの二人連れの女の子たちが、傘を一本貸してくれたのです。彼女たちも一本の傘で濡れるかもしれないのに、そんなことなどお構いなしのようでした。残念なことに、綿菓子は並んでいるうちに売り切れてしまって食べることはできなかったのですが、二人にお礼を言ってさわやかな気持ちで家路についたのです、という話です。

別れるときの二人の笑顔がとても印象的だったといいます。小学生の娘さんにとっても、お祭りプラスアルファの貴重な体験になったのではないでしょうか。人には、困った人を見ると、自分ができることをしてあげたいと思う心が目覚めてきます。してあげられることの大小には関係はありません。身近に、即できることがあれば、それが大事です。誰にでもある心でしょう。

傘を貸した人、借りた人のその後に期待したい

傘を貸してあげた二人の中学生。その時にできた精一杯の隣人愛情表現です。その心に磨きがかかるのは、成長過程で積み上げてきた数々の体験であろうと思います。それも、自分の身近にいる親御さん、兄弟たちの一挙手一投足が、影響力大です。それは時代を超えて、国を超えて、人である限り、表現の仕方に違いはあっても共通しています。小学生の娘さんは何を思ったでしょうか。その後に母子の、この情景についての会話があるといいですね。

弟子たちは一回で教えを理解できたわけではない

イエスさまの弟子たちは、師であるイエスさまの言葉、行いの後に、その意味を直接に聞く対話の機会を何回もいただき、成長の糧にしていったのではないかと思われます。とはいっても、一回ですべてが理解できたかというと、そうでもありません。

特に、今日の福音にあるように「十字架の受難」については、なかなか受け止めることができないのです。弟子たちにしてみますと、「十字架」は屈辱的なことを意味するものでした。人間の常識では、どうしても、受け入れがたいことがらなのです。ペトロはすぐに反応します。「主よ、とんでもないことです。決してそのようなことはありません」と。

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十字架を担う歩み、それは、命を失うどころか、いのちを得る道なのだということを、弟子たちに伝えるために「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を担って、わたしに従いなさい。自分の命を救おうと望む者は、それを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを得る」と、強調します。

人間の常識的な価値観からしますと逆のような気がしますし、価値観の違いを突き付けられるのです。この話を聞いて、弟子たちがどれだけ受け止められたのか定かではありません。しかし、彼らが長い間求めてきたのは、人間の苦しみを取り除いてくれる神の力でした。今のわたしたちも同じことを求め、期待しています。

その観点からしますと、イエスさまのおっしゃることは的外れとなります。喜んで十字架を受け入れることなど嫌悪すべきものでした。ところが、人の思いを超えた、非常識的な世界にこそ、イエスさまの愛が価値を持ってきます。

弟子たちの「十字架」理解は聖霊を受けてから

自分が不利な状態に置かれることになっても、その価値は下がりません。愛には自己否定がいつもついてまわるからです。自分の好み、生きがい、生きる権利さえをも否定していくのが、イエスさま流の愛です。その最高峰が「十字架」でした。弟子たちがそのことに気付いたのが聖霊の恵みに照らされた後です。

わたしたちの日常の小さな愛の行いの積み重ねが、イエスさまの十字架につながっています。傘を貸してくれたあの二人の中学生の女の子、大きいことはできなくても、積み木のように一つひとつ重ねていきたいですね。現代では、この「小さなこと」が見過ごされているのではないでしょうか。その実、大きいことにつながっているのです。

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