年間第19主日(A年)の説教=マタイ14・22~33
2017年8月13日
三つ子の魂百まで、と言うほど幼児教育は大事
かつて、わたし自身、長い間、幼稚園に勤務させていただき、幼児教育現場で「子育て」の一部に参画させていただいたことがあります。その中で、いろいろなことを学ばせていただきました。一般に「三つ子の魂百まで」といわれますが、いかに幼児教育が大事であるのかを物語っています。
幼児教育が「大事である」と分かっていながら、その実際はどうなんでしょうか。当然のこと、完璧にやり遂げることはなかなかです。それはわかっていることですが、それでも、「大事であるありかた」の是非について、不完全ながらも追及していく姿は求められていくべきことでしょう。
いかに大事であるのか、何か具体的な手立てでもあるのかといえば、一つです。分かりきったことで、「誰でもやっていることじゃない」といわれればそれまでです。
幼児教育の根幹は、優しい母のそばにいること
つまり、「優しいお母さんのそばにいること」です。幼稚園現場で学び取ったことの大きな一つはこれでした。「優しいお母さん」が大事なのです。もちろん、お父さんも大事ですが、幼い頃の子どもたちにとって、自分を生み、この世ではじめて語りかけてくれたお母さんが大好きなんですね。もちろん、自分を生んでくれたなんて意識はないでしょうが、親子の間に自然と備わっている「情」とでもいえるでしょうか。この絆が育ちのために非常に大事になっているように思います。
こうした居心地のいい環境、これが家庭ではないでしょうか。家族の絆といえるものではないでしょうか。家庭は子育ての訓練所なんかではないのです。家庭では「励まし、ゆるし、癒し、やすらぎ」があります。子どもたちの、のびのびとした成長のためには欠くことのできない大事な環境です。その上、そこでは「甘え」「あなたはそのままでいいのよ」とかばってくれる味方がいます。
家庭は「ありのまま」をゆるす居心地の良さがある
口先や文字に書いた愛ではなく、動きになって、形になって見せてくれる愛があります。文字通り、愛は名詞ではなく、動詞なのです。だから、子どもは夢と希望で一杯になり、前に進めるのです。お母さんの、お父さんの、身内の人の愛と優しさを、心の底から確認できる環境があるのです。
一方で、親御さんにとっても、家庭はホッとできる環境ではないんでしょうか。手足を伸ばしてゆっくりとできる場は、誰にとっても必要ですし、大事です。緊張感は大事でも束縛感は不要です。
安心できる、順風満帆ばかりの生活はあり得ない
とはいっても、すべて、いつも順風満帆というわけもありません。子育て、その他に無力感を覚えることだって誰にでもあります。気持ちが動転するほどの混乱に陥ることもあり得ます。親として、大人としての自分のもろさが暴露されます。悩みの体験の違いこそあれ、誰でも経験なさることではないでしょうか。
今日の福音の話は、まさしく、どん底に出会った弟子たちの慌てぶりが描かれています。慌てぶりというよりも、弟子たちのふがいなさ、弱さ、もろさが露呈しています。格好悪いのです。いつもはイエスさまのすぐ近くにいて、どんな人々よりもイエスさまの人格の素晴らしさと、奇跡をおこなう力強さを体験して、ゆらぐことのない安心感の中に過ごしてきました。
恵まれた体験が実るためには日々の鍛錬が必要
しかし、恵まれた体験それだけでは、「あらし」の前では何の力にもならないのでした。神の力強さを体験しても、人間が人間であることをやめない限り、迷いやすさ、崩れやすさ、傷つき倒れやすさなど、弱さを備えた存在であることには変わりありません。いつまでもついてまわります。したがって、体験が実りあるものとなるために、日々の鍛錬が必要だったのです。
信仰は、こうした紆余曲折を経験する現実の中で、神を見つめていく目であり、心であり、神に懸けていく「行為」であるでしょう。弟子たちは、その積み重ねを通して鍛えられていったのでした。そして、不安と恐れから解放され、ゆらぐことのない生き方、信仰へと成長させていただくのです。
漁師であったペトロ以下の弟子たちにとって、「あらし」は何回も体験する普通のことだったのではないでしょうか。その実際の不安や迷い、苦しみの中で葛藤しながら、徐々に信仰は育っていったのでした。
嵐に遭っても神から目をそらさない自分を目指して
今に生きているわたしたち、「人生のあらし」に圧倒されて、神から目をそらしたくなる、文句ばかりを言いたくなる、そのような体験を重ねつつ盤石な「自分」をめざせるように、力と勇気を願いましょう。
いつも生き方の奥にあるのは、居心地のいい「家庭」環境です。親も子も、大人も子どもも、穏やかに伸び伸びと育っていきますように。中心にイエスさまがいますか、・・?!
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