主の変容(A年)の説教=マタイ17・1~9
2017年8月6日
暑い夏の真っただ中です。今年も、広島・長崎へのあの原爆投下の日を迎えます。今年で72年となります。今年は、今までとは違った思いで、その日を迎えようとしている方がいます。先日の新聞報道で知りました。(讀賣新聞大阪本社2017年8月3日朝刊)
「平和の折り鶴」で被爆地と米が繋がる
その方は現代美術家の田中勝さん(48歳、京都造形芸術大准教授)です。原爆開発の地・アメリカ・ニューメキシコ州ロスアラモスから、胸高鳴る一報が入ったからです。それというのは、「平和の折り鶴 米から」というものです。ロスアラモスにある歴史博物館の館長・ジュディス・スタウバーさんが、今月6日と9日の広島、長崎両原爆忌にあわせて1300羽余りの折り鶴を、両市に届けるということです。
ロスアラモスは「マンハッタン計画」の拠点となった原爆開発の地です。第二次世界大戦中、アメリカが極秘で進めていた原爆開発計画の中心地でした。1945年7月、同州内の砂漠で爆発実験が行われ、翌月に広島、長崎に投下されたのです。
オバマ前大統領の昨年の広島訪問がきっかけ
こうした「折り鶴」の動きの始まりは、昨年のオバマ前アメリカ大統領の広島訪問です。昨年5月にオバマ前大統領が広島を訪れ、広島に折り鶴を残していきました。その折り鶴の写真を題材にして手がけたアートを、ロスアラモスの博物館の敷地内で、美術家の田中さんが、今年の3月に展示する機会をいただいたということです。博物館には原爆開発の歴史を中心とした展示品が並んでいます。その中で、田中さんは「オバマ氏の折り鶴が持つメッセージを生かしたい」思いで、また、加害、被害の立場を超えて人々をつなぎ、核廃絶と平和を願う造形の力を信じて開催したといいます。
日本の美術家の動きに米の博物館長が応えて
これに応えるかのように、「今度はわたしたちが折り鶴を届けたい」という博物館館長からの計画を知ることになりました。館長自身が両原爆忌に行われる式典に参列するということです。折り鶴が結ぶ被爆地と原爆開発の地。田中さんは「歴史観を超え、相互に折り鶴が羽ばたく。そこから対話が始まる」と期待しているといわれます。
人は真心を伝えるとき「もの」を使うことが多い
わたしたちは自分の真心を人に伝える時、大抵の場合、ごく自然に、その心の表れとしての「もの」を使う場合が多いです。お中元とかお歳暮はその一つでしょう。その「もの」に託して感謝を伝え、願いを伝えていきます。それが相手の方に伝わると嬉しくなります。双方が気持ちのいい、喜ばしい状態に置かれます。
心身健康というのはこのような状態なんでしょうか。既述した田中さんも、自分の真心を表現し、相手の皆さんに伝わったからこそ、その応えに感動されたのでしょう。とはいっても、その相手の人と全く同じ感じ方になることはできないでしょうが、・・。
主の変容はものを使わず、イエスが直接本性を現した
今日は「主の変容」の主日です。弟子たちに何かを伝えようとしてイエスさまは動かれます。今日の福音では、直接的に三人の弟子たちに見せます。語りかけます。たとえで語るわけでもなく、何かのヒントを持ち出すわけでもありません。それだけに、弟子たちには、結局のところ、わからないままに終わってしまう出来事になってしまいました。
主の変容は、理解よりも体験に重きを置いている
イエスさまが意図されたのは何だったのでしょう。「主の変容」を理解する、しないよりも、「体験する」ことに重きがあるような気がします。つまり、「顔は太陽のように輝き、衣は光のように白く光った」イエスさまを目の当たりにしたのです。ナザレの大工の子の顔が、見ることができないほどに光り輝くのです。ペトロは何をどう言えばいいのか、取り乱し、わからなかったのでしょう。彼らは倒れ伏し、非常に恐れたのでした。
この出来事は、受難の道のりをたどる旅に出られる前に起きています。そこから見えてくることは、「苦しみは人生のすべてではなく、復活と永遠の生命への過程に過ぎない」ことを、弟子たちに知らせ、記憶させておきたかったのではないでしょうか。
事実、イエスさまは弟子たちに言っておられます。「人の子が死者の中から復活するまでは、今、見たことを誰にも話してはならない」と。したがって、今日の弟子たちの体験は、復活されたイエスさまに出会うまでは、悟ることのできなかった出来事だったのです。
主の変容は、イエスが神であることの天の確認作業
あまりにも直接的で、媒介する「もの・折り鶴」がありませんので、神の心が、ますますわかりにくく、人の知恵では到達できない、それでいて、神からの愛と喜びのメッセージであったのです。代用品の「もの」ではなく、イエスさまご自身がわたしたちの前に示されたのです。わたしたちも直に、自己を素直に見せましょう。
主の変容は、イエスさまが「神である」ことの天からの「確認作業」なのです。だから、日常生活で迷いが生じたり、困難にであったりして、どうしたらよいかわからない時、「かれに聞け」という神の声を思い出しましょう。自身を祭壇の前に置きましょう。信じる喜びをともにしたいですね。
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