復活節第6主日(A年)の説教=ヨハネ14・15~21
2017年5月21日
国歌、園歌、校歌、応援歌など、慣れ親しんできた歌は数多いと思います。わたしは小学校を3回ほど転校したこともあってか、小学校の校歌はよく覚えていないですね。というより、歌った記憶も全く残っていないです。なんだか寂しくなってしまいます。と言っても、それ以上の学校校歌を覚えていますか、と問われれば、少しは記憶の底から引っ張り出すことができました。やはり忘れてしまいますね。みなさんはいかがでしょうか。
新聞コラムによると、社歌が見直されているらしい
「社歌が見直されている」という文言で始まるコラム記事が目に入りました。(讀賣新聞大阪本社、2017年5月16日朝刊) 現在、働き方や働く人の多様化に伴い、社員が楽しみながらコミュニケーションをとることができる大きな手段になっているとのことであります。創立記念を機会に新しく作った歌であったり、時代の流れに即した歌詞、ポップス調の軽快な曲であったり、現代の感性にふさわしいラップ調であったり、はたまたロック調であったりと様々なようです。
社内のコミュニケーションツールとして注目されている
社歌製作サービスを手がける「アイデアガレージ」(東京)社長の西尾竜一さんは「東日本大震災をきっかけに、企業と働く人の関係を見直そうという動きが広がり、社内のコミュニケーションツールとして社歌が改めて注目された」と指摘しています。
さらに、大手企業の社歌を紹介した作家・ジャーナリストの弓狩匡純(ゆがり まさずみ)さんは「女性活躍の取り組みや企業の多国籍化などで、多様性が高まるほど、一つの組織としてまとまる求心力が必要になる。社歌への注目は高まるのでは」とみています。
歌は国境を越え、お互いの気持ちを分かち合うことができる
確かに歌には国境がありません。かつて、アメリカに行ったとき、英語を早く覚えるためには英語の歌を聞きなさいと言われたことを思い出しました。日本語の歌もそうですが、歌詞が短いうえに、的確な表現を使ってちゃんと内容を伝えています。特に演歌と言われる歌は、ある時はメッセージであったり、心の叫びであったり、つぶやきであったりと、その時の人の心情を的確に歌い上げています。
人は歌を通して人を求めています。それが歌なのでしょう。お互いの気持ちの分かち合いです。お互いを鼓舞する掛け声です。応援歌です。そのために、己をよく知ることです。中でも演歌は、その己を吐露している内容が多いような気がします。その歌を聞く人が、その内容にぴったりと呼応できた時、その歌を好きになっていきます。好きになった仲間が増えてきたときに、その歌は多くの人に口ずさまれ、「大ヒット」曲として世に流行るのでしょう。
イエスは弟子たちに聖霊を送る約束をした
今日のイエスさまのメッセージは、「己を知る」者とそうでない者との違いを指摘されています。つまり、最後の晩餐の席で、イエスさまは聖霊を弟子たちに約束しますが、世に対してはっきりと否定します。「その方は真理の霊であるが、その方を、世は、見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない」と言われるのです。
イエスさまの言う「世」とは何を、誰をさすのでしょうか。気になります。聖書学者によりますと、「世」とは、一般に世界とか人間とかを意味しているだけでなく、特に、ヨハネの福音書では、ユダヤ人をさしていると説明しています。すなはち、上なる神の領域と下なる世との対立を示しているといえるでしょうか。
聖霊を受けるために必要な資格は?
いずれにしても、聖霊を受けるために何かの資格が必要なのでしょうか。弟子たちは受ける資格があって、世は受ける資格がないと。弟子たち自身、立派な言動をして生きてきたかと言いますと、決してそうとは言い切れません。イエスさまの十字架はまさに、弟子たちの闇の部分をさらけ出したのです。
聖霊を妨げるのは自分を正当化しようとする「傲慢心」
イエスさまと一緒になるために、自己の弱さ、罪があっても、それらは妨げになりません。今のわたしたちとて同じです。妨げているものと言えば、「傲慢心」です。弱いのに強がっている心、間違っているのに正しいと思い込んで、正当化しようとしている自分の心の状態に気づいていないのです。弟子たちは、自分たちのこうした状態に気づかされたのでした。謙虚になっていったのです。
一足飛びで「謙虚」になることができなくても、目指しましょう。その過程で、互いに励まされ、一つ心になって共に強められていきます。その背後に「聖霊」がいて照らし、強め、導いてくれます。「社歌」も、人の共同体の中で、同じような役割を持っているのでしょうか。
人に、仕事に、そして、神の前に謙虚になっていけたらいいですね。
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