年間第30主日(C年)の説教=ルカ18・9-14
2016年10月23日
どの国においても同じなのかどうかわかりませんが、年間、どれだけの若い女性たちが「アイドル」として世に出、いなくなっていくのでしょうか。若い男性たちもいるのでしょうが、女性ほどに話題になりませんね。わたしの認識不足でしょうか。いずれにしても、みな、一人ひとりはその人生をかけた挑戦であろうと思います。
「挑戦」という表現を用いると、その結果は「勝ち、負け」にたどり着きそうですが、大事なのは、挑戦している途中です。「~ing」の中で培われる「わたし」が大事なのです。仮に、有名人になれなかったとしても、「わたし」が確立されていっています。その挑戦は有意義でした。無駄はないのです。
いつの時代も同じでしょうが、「教育」が占める人としての育ちの力には大きいものがあります。わたしの身勝手な感じ方かもしれませんが、わが国では「しつけ」という一言で「育ち」の長さ、幅、中身を片付けていないでしょうか。「しつけのつもり」だった、といえば、まかり通るわたしたちの感覚がありはしないだろうか、と思ってしまいます。
幼いころから育ってきたものは、そう簡単に矯正することは難しいです。その人の、「その人たらしめている」ポイントになっていることが多いからです。親の言葉よりも、親の振る舞いを見て身についてきたものが、圧倒的に多いということの証拠にもなるでしょう。
今日の福音で二人の人が、祈るために神殿に上りました。神殿の入り口からして、すでに二人の行動に違いがあります。一人はすいすいと神殿の内部奥に入っていきます。一人は入り口で立ち止まります。二人とも、祈るために神殿に何回となく来たことがあるでしょう。でも、この違いはどこから来るのでしょうか。
やはり、それまでの二人の「育ち」の違いではないのかと思います。ファリサイ派の人にとって、神殿に上ることは苦になることではなかったでしょう。むしろ、それはかれにとっては誇りであり、喜びであったことでしょう。祈りの中身も見せかけでもなく、誤りのない、非の打ちどころのない人生であったし、幼いころから身についた模範生だったといえます。
これに比べ取税人は、全く逆で、罪に汚れ、誇ることのない自分のありのままを神にさらけ出します。ファリサイ派の祈りには耳障りな響きを感じます。それは、取税人のような人の立場に共鳴する感性に欠けているが故の結果でしょう。
何を称して「いい育ち・悪い育ち」というかは別として、神の心に触れる祈りができるかできないかが、神のあわれみを引き寄せる分かれ道となりそうです。神のあわれみにまっすぐに響く祈りは、・・・?!
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