年間第14主日(C年)の説教=ルカ10.1~12、17~20
2016年7月3日
学生時代にあちらこちらに旅したことを思い出しております。何十年たっても忘れないものもありますが、記憶はどこか曖昧になってきています。
あの頃は目の前に展開されていく事象に、ただ一生懸命に反応していた自分があったなと思います。年を重ねていくと、事象の裏には何があるのかとか、むやみやたらに、要らぬ先々のことをも心配してみたりとか、徒労が多くなりがちです。無駄なエネルギーを消費してしまいます。年齢とともに、自ずと人に託された役割が生じてくると思いますが、それどころではなくなってしまいます。
ところが、ある人に、あることに選ばれて何かを任されると、表情は一変してしまいます。自分以外の人から期待されますと、それだけで元気が出てきます。誰かと心が通い合ったかかわりを持つことが、どれだけ人にいい影響を与えるものなのかを物語っています。
イエスさまと弟子たちの関係もそうだったような気がします。信頼し、安心しきったイエスさまに仕事を頼まれ、派遣された今日の福音書の話が、そのことを証明しているのではないでしょうか。弟子たちは貧しいながらも、喜びにあふれた心で戻ってきたのです。
現代に生きるわたしたちも、イエスさまの教えを多くの人に伝える使命を持っています。イエスさまに期待されているのです。だから、わたしたち一人ひとりの在り方は非常に重要であるといえます。今日の福音書はそう指摘します。
つまり、イエスさまはご自分のメッセージを伝えるために、自ら70人を指名し、派遣しています。イエスさまご自身がお選びになりました。自ずとそこには権威が生じます。この権威は、イエスさまに近づこうとする人たちの妨げになってはいけません。逆に、人々のさまざまな姿に、生き様に、自分の心をひらくためのものです。
派遣される一人ひとりが、人生のさまざまな労苦、重荷を背負いきれないでいる人に共感し、人間が持っている惨めさ、悲惨さに向き合う姿勢を学ぶためにいただく「権威」なのです。
権威をいただいた者の誘惑は、権威の乱用です。つまり、自己の利益を追い求めようとする傾きです。自分の名誉、栄華を求めて、挙句の果ては自身の役割を果たすどころか、自己破たんしていくのです。本人もかわいそうながら、周りの人々はもっとかわいそうな目にあいます。
イエスさまに期待されている自分に目覚めましょう。元気になりましょう。そして、平和の使者になりましょう。
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