年間第15主日(A年)の説教=マタイ13.1~23
2014年7月13日
かなり前の、わたしが東南アジアを旅していた時の話です。ある地方の、緑に囲まれた道を歩いていました。車も通る道ですが、「田舎道」なので、いたるところにむしろが敷かれていて、その上に収穫された稲穂が置かれていました。何のため?立ち止まって観察していますと、道行く車がその稲穂の上をわざわざ(?)走っていきます。要するに、車による脱穀です。その地域の生活の知恵だと思いました。なんといってもタダです。
国・地域によってさまざまな習慣、礼儀作法があります。人は、その生きている環境の中でこそまっとうな成長を遂げ、よりその人らしく、その国民らしくなっていきます。それにつれて、その他の関連ある必要なものも育っていくのです。そして一人の大人が誕生します。農・工業技術においてもさまざまです。
イエスさまの時代のパレスティナでは、農耕術の一つとして、地を耕さずに種をまいていました。日本のお百姓さんとは逆です。したがって、種の生命力を生かすも殺すも、その土地の状態いかんにかかっているのであると、強調なさいます。
イエスさまの福音、「救いのよい知らせ」が、どんなに活力に満ちたメッセージであっても、聞く側のわたしたち一人ひとりのこころのあり方にかかっているとおっしゃるのです。つまり、今日の福音が、その実りをもたらすのも無駄にするのも、とどのつまり、「わたし」次第であるというわけです。
仮に、イエスさまのことばが、教えが無駄になったとしても、語ることを決してやめないのが、救い主・イエスさまの姿です。むしろ、止めることができないのです。それだけ、わたしたち人間を相手にし、愛さないわけにはいかないのです。それだけわたしたちは「ミゼール」だからです。
語りをやめないイエスさまへ向き直りましょう、と呼びかけているのが今日の福音です。結局は、わたしたち一人ひとりは、自然に飛ばされたか、自ら跳んだのかわかりませんが、自分の立居を確認できないほどに、他者に頼っているのです。生かされているのです。この点に関しては、国、民族に関係なく等しいものです。その「等しさ」の上に立って、どんな人でも願っている「平和」をうみだしましょうよ。
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