復活の主日(A年)の説教=ヨハネ20.1~9
2014年4月20日
毎年、同じような時期に、季節に復活祭は巡ってきます。それも、自然界の息吹が新たな姿を、美しい形で見せてくれる季節と重なります。新緑の香り、きれいな花々の色、匂い等、何を取り上げても、人を和ませ、新たな希望を抱かせてくれる季節、春です。
わたしたちはどうしても季節の影響を受けて、感覚が整ってきます。また、どこの国にいっても、世界地図を開いて見ると、自国がその中心に描かれています。祖国愛の表れでしょうか(?)。つまり、外見的な習慣、やり方が、人の感性に自然と影響を与え、「復活の主日」の意味の捉え方にも多少の違いが生じ得ます。
今日は、復活の祝日です。本当におめでとうございます。
イエスさまが無惨な死を遂げて、弟子たちの前から姿を消してしまわれたのです。11人の使徒のみならず、その死を悲しみ、生きる元気をなくした人はたくさんいたのでしょう。マグダラのマリアもその一人でした。
マリア自身は「復活」の意味がよくわかっていなかったのです。だからなのか、マリアの関心事は、イエスさまの「遺体」です。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません」(2節)と。彼女にとって、イエスさまは、その人生を転換できる大きな契機をくださった方です。それこそ彼女にとっては「かけがえのない」方でした。だから、せめてご遺体を求めたのでした。イエスさまを思い出し、自分を律していくための力となると思ったのでしょう。こうした気持ちは、今のわたしたちにもあるのではないでしょうか。「形見」はその代表でしょう。
事実、主の「復活」は人間の理解を超えています。今日の福音書の中に、「見る」という言葉が3回も使われています。「もう一人の弟子の方が、・・中をのぞく」の「のぞく」は、ごく一般に「見る」という意味で使われるそうです。
「ペトロは・・亜麻布が置いてあるのを見た」は、「詳細に観察する」という意味をもっているようです。最後に、「もう一人の弟子も入って、見て、信じた」は、事物や状況ではなく、出来事の指している本当の意味を、見ているのでしょうか。出来事の背後にある「復活」の意味を見てとったということでしょうか。
イエスさまの復活を最初に「信じた人」は、この弟子でした。そして、この出来事はみるみるうちに広がっていったのです。ついに、1549年8月には、この日本にまで伝わってきました。主の「復活」がなければ、生きた内容として時代を超えて、地域、民族を超えて広がってはいかないでしょう。「死」で終われば、歴史上点とし残ったでしょうが、今みたいに面としての広がりはあり得なかったように思います。だから、主の「復活」は信仰の根底をなします。新たな希望を抱いて、いつも前へ、・・・。
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