四旬節第2主日(A年)の説教=マタイ17.1~9
2014年3月16日
最近はあまり鑑賞することもなくなりましたが、今、公開中の映画「大統領の執事の涙」が話題になっているということです。ホワイトハウスで7人の白人大統領たちにつかえた黒人執事の物語です。現在のオバマ大統領誕生するまでが描かれているそうです。
この映画のリー・ダニエルズ監督自身、この作品を通して自分の父親を理解できるようになった、と。13歳の時に父親と死別している監督は、父親のことを評して、「彼はとても辛辣でいつも怒りを抱えていて、それがずっと理解できずにいた」と。この作品を撮りながら、父の世代が置かれた状況を理解するにつれ、理由が見えてきたようです。
「彼(父)は自分が人間扱いされないことに混乱していたのだと思う」と述懐しています。 さらに、映画を撮る度に、「人は、どんなにつらい時でも笑うものだし、それが生きていくために大切なこと。それは、自分の作品でも繰り返し、必ず描いていることでもあるんだ」と同監督は説明しています。
わたしたちが「生きている」目的は、人によってさまざまでしょうが、一つ言えることは、先の監督が言明している「人としての扱いをされないこと」で、生きる目的が失せていくことがあります。人といることが楽しい時でも、その場から離れると一瞬にしてその「輝き」が消えてしまうのです。
今日の福音は、タボル山の変容の場面が紹介されます。それは、イエスさまの中に神のいのちが生き、生きる命の汚れのなさ、力があふれていることを示しています。この場面に居合わせたペトロが発することばは、「お望みならば、わたくしは三つの仮のいおりをつくりましょう」でした。
何のためだったのでしょうか。この前に、ペトロは「わたくしどもがここにいるのは、なんと幸せなことでしょう」といっています。どのような幸せなのかは分かりませんが、この世では、苦労が多く、それゆえに煩わしいことの連続です。それに比して、「今」ここでは幸せ感を感じています。
ペトロは、その状態をず~っと味わっていたかったのでしょうか。しかし、そのままではイエスさまの弟子ではありえないと主は言われます。 ペトロが話し終えないうちに、3人の弟子たちは現実に引き戻されるのです。
イエスさまの本来の姿は光り輝いているのだが、その前に、辿るべき道があるとして、弟子たちにその心構えをお示しになったのでした。それは、今のわたしたちに対しても同じことが言えます。そうわたしたちに要求することができるのです。
本来の自分の姿を「捨て」て、わたしたちの人生にご自分の人生をあわせられたのです。人間にとっては「負」の要素で充満しても、イエスさまの前では「勝利」の道なのです。人間には矛盾したように見えるこのことを受けますか、どうしますか、・・・を味わう四旬節です。本来の生きる目的を真摯に見つめていきましょう。
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