四旬節第1主日(A年)の説教=マタイ4.1~11
2014年3月9日
いよいよ四旬節に入りました。「罪深いわたし」にとりまして、今年こそは、と毎年、新たな決断をしても、過ぎてしまいますと、もっと悪くなったな、と嘆くばかりの連続です。
「謙虚になる」ことの幅、広さ、深さなど、何も分かっていない「わたし」に「振り返る」といっても、どこに「視点」を置けばいいのかまったく定まらないのです。この状態で、善行をしても、それが「善行」になるのか、・・・。こうした「理屈」をこねまわしている限り、本物の「自分」に辿りつくことなど、できそうもありません。
今日、イエスさまがわたしたちに示されている姿は、信仰者として「こうあるほうがいいよ」という召し出しを感じます。わたしたち人間の側からしますと、イエスさまの鍵になることばと「あり方」は、「信仰宣言」であるといえないでしょうか。人生の行き詰まりや人間的な慰めや支えが消えうせた時に、「藁をもつかむ」思いになりませんか。
自分に分かるような形での救い、助けの手を欲します。「神さま、どうかしてください」という叫びは、「甘い」といわれるかもしれませんが、これまた「わたしの信仰」なのです。神を見続けている限り、神に背を向けて生きていない限り、神のまなざしを感じることはできるでしょう。これまた「甘い」?!・・・。
「人はパンだけで生きるものではない」「「あなたの神である主を試してはいけない」「神なる主を礼拝し、ただ神にだけ仕えねばならない」というイエスさまの回答は、徹底したご自分の心の中を宣言されたものです。それは「自分を神にささげきっている」生き方の宣言です。
まさに、神に背を向けるか神に生きるか、このことを追求していきながら、本物の「自分探し」が始まる四旬節です。そうしながら、今の自分の信仰を確かめてみましょう。道がまっすぐになりますよ。そう願いたいです。
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