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年間第24主日:教会共同体は、みなが喜ぶ集いになっているでしょうか?

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年間第24主日(C年)の説教=ルカ15.1~32

2013年9月15日

寄り添うイエスかつて、「格差社会」や「勝ち組・負け組」「ゆとり教育による学力低下」などの言葉が飛び交い、社会現象となった時代がありました。現在でも実態は続いているのでしょうか。

「やっぱりうちの子を将来『負け組』にはさせたくない、そのために親としてできるだけの教育はしてあげたい」と願うお母さん、お父さんは多いことでしょう。これらの言葉に共通する背後にあることは「落ちこぼれ」という結果のような気がします。現在でも続いているのでしょうか。

こうした社会現象と同じではありませんが、聖書の中でも似たような話が出てまいります。本人たちにはまったく責任のないこととはいえ、落ちこぼれにされてしまうという点では、現代の社会現象と同じです。

その現象の主とは、イエスさまの時代に、人びとの指導者層として存在していたファリザイ派と律法学士たちでした。「徴税人や罪びとが皆、話しを聞こうとしてイエスに近寄ってきた」ことを指導者層は非難します。イエスさまに近寄ってきた人びとは、所謂「落ちこぼれ組」と見られていたのでした。

徴税人は、当時、イスラエルを支配するローマのために、税金を取り立てる人びとのことです。通常の税金に上乗せをして取り立てていたことで、ユダヤの社会からはいやがられていました。指導者層は、次から次と律法を決め、それを守るか守らないかで人の評価をしていたのです。だからこそ、守らない罪びとは不道徳な人として「落ちこぼれ」でした。

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イエスさまは、このような罪びとを自ら、わざわざ探し回られるのです。そして、そのような人びとがイエスさまの周りに集まってきたのです。集まった人びとが特別に何かをしたのかというと、何もしていません。そして、イエスさまは一緒によろこんでくださるのです。

救いに条件があるとすれば、集められたわたしたちが、一緒に喜ぶ「つもり」があるんですか、ということです。今の教会共同体がみな、「一緒によろこんでいる集い」になっているかどうかです。みなが一堂に集まることに大きな意義があります。生きがいをそこに見いだしたいといつも思います。

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