待降節第4主日(B年)の説教=ルカ2.15~20
2011年12月18日
キリストの降誕を前にした最後の日曜日の福音には、マリアさまが登場します。それもそのはずです。神の「救いの計画」の実現は、実にマリアさまの受諾があるかどうかで始まるからです。人類救いの事業は、「お告げ」という形で最初にマリアさまに示されたのです。
「あなたは女の中で祝福されたかたです」とのあいさつを受けられます。大天使ガブリエルはその理由を、「あなたは、主のみ前に恵みを得たのです」と告げます。「主の前に恵みを得る」とはどのようなことでしょうか。表現は悪いかも知れませんが、一種の「えこひいき」とでもいえるのではないかと感じても、おかしくないような気がします。しかし、それは人間的にいいこと尽くめでないことも確かです。だから、本当の「えこひいき」ではないのです。
わたしたちにとって、「恵み」とは何でしょうか。
通常、「恵まれているね~」というとき、物であったり、時間であったり、チャンスであったりとかします。つまり、「賜物」として感じられることが多いのではないでしょうか。それはそうですが、その前にあるもの、それがもっと大事なことのような気がします。それというのは、互いの「かかわり」です。深いかかわり(親密な)なのか、浅いかかわり(表面的)なのか、によって、その後の行動に影響します。
上の方が下の人に目を留めるには、それなりの好意を感じているからでしょう。そうしてあげたいと感じるような関係にあるということです。神にとって、すべての人間はそのような存在なのです。神に目をかけてもらえるほどの存在なのです。これをあり難いと感じているのか、そうでないのかによって、恵みと受け止めるか否かが決まります。
神をもっと身近な方として感じることのできる日が、実は、クリスマス(イエスさまの誕生日)なのです。そのさきがけとなる出来事が、今日のマリアさまへのお告げです。偉大な存在の神が、人間(マリア)の承諾によってわたしたちの間に、隣に来てくださるのです。わたしたちは首を縦に振るだけでいいのです。その模範を示してくださったのが今日のマリアさまです。その承諾の中身は、神の意志にわが身を「ゆだねる」ことでした。
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