主の復活(A年)の説教=ヨハネ20・1~9
2011年4月24日
心と体はひとつであるということを、改めて感じているこのごろです。精神的に弱くなると、体のどこかにその結果が表れてきます。気持ちのもちかた一つで、明るくなりますし、暗くもなります。そして、自分が歩いてきた過去にも影響されます。それでも、いつも明るくいたいなと感じています。
主の復活は、イエスさまと共に生活していた人々にとって、彼らの過去に引き戻る機会にもなりました。つまり、イエスさまとの思い出に浸ろうとするマリアにとって、墓はイエスさまを思い出す必要なよすがなのです。
なんといいましても、イエスさまとの出会いによって、彼女は生きる意味を見いだしたのでした。名実共に命の恩人であったイエスさまにこだわる彼女の気持ちはわかります。ところが、「空」でした。思い出になるなにものもありませんでした。あるはずのものがないことを「空である」という表現で語っています。
思い出どころではなく、愕然としてしまうほどの状態です。何かが本当に、完全に終わってしまったことを言わんとしているのではないでしょうか。
何かが完全に終わるとところに、まったく新しい何かが始まるのです。それが、今日の主の復活です。過去の生き方に留まるのではなく、まったく新しい世界に導いてくださるのが今日の祝日です。マリアも二人の弟子たちもそのことには気づいていません。人の醜い思いにつぶされたイエスさまの受難と死は、まったく形を変えて、人の救いというイエスさまのわたしたちへの愛に変えられたのです。
さて、今のわたしにとって、主の復活はどのような意味合いがあるのでしょうか。
「わたし」の生き様にとって、主の復活が意味あるものとなって初めて、歴史上の出来事が、「今のわたし」に力を持つものとなります。信仰心となって語り継いでいけるのです。そして、キリストの証人となっていきます。復活の恵みと重みは、今年のわたしにとってなんでしょうか?!
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