年間第6主日(A年)の説教=マタイ5・17~37
2011年2月13日
かつて「小さな罪は何回犯しても、小さいままであるが、その影響を受けてしでかす他の罪は大きいものがある」と、よく言われたものです。やはり表にあらわれる形あるものは、いきなり突発的に表れるのではなく、必ずそのための布石があります。
それにわたしたちが気づかないだけです。自分さえも気づかない心の内なる動きがあったはずです。行いの背景には、こうした根があります。そこから噴出してくるものが形となったときに、戦争、殺人、強姦、暴行などとなっていきます。
「しかし、わたしは言う、・・・」とイエスさまが言うとき、外面に見える行いよりも、そうした行為の根にあたる人間の欲望を指摘なさっているのでしょう。つまり、わたしたちが自分の中にある欲望に対決していくように求めているのです。
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人には自分の内なる醜さは見えませんが、神の前にはさらけ出されているのです。とはいっても、神はそのことを他人に漏らすようなことはなさいません。だから、わたしたちは堂々と生きておられるのです。とはいうものの、醜い自分のうちをそのままにしておいて、外側だけをとりつくろうとしても、いつまでたっても自分の中は変わりません。
むしろ、いやらしさ、醜さが増していくのでは、・・・。
自分を清めることは神から絶えず求められていることであり、一人ひとりがそれに取り組んでいくならば、地上の平和も実現します。その根本にあるものは、徹底した受容と自己放棄です。イエスさまの生き方がまさにそうでした。
今日もまた、このイエスさまから招かれているのです。
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