待降節第4主日(A年)の説教=マタイ1・18~24
2010年12月19日
日本最初の銀行は1873年(明治6年)8月1日に営業を始めた第一国立銀行であります。英語のバンクを翻訳して銀行としたということです。銀行の「行」は、漢語で店という意味ですから、銀行はお金を取り扱う店ということになります。それなら「金行」としたほうがわかりやすのでは、と思ってしまいます。どうして「銀行」となったのでしょうか。
普通使い慣れている言葉について、単純な疑問を持つことも、自己活性化のためによいことであると思います。その理由を聞けば、「そんなこと!」といいたくなりますが、妙に納得します。「明治初期は金より銀の方がたくさん流通していたので銀行となった」ということです。また「キンコウよりギンコウの方が発音しやすい」という理由もあったということです。因みに、初代の頭取は渋沢栄一氏だといいます。
通常は何も疑問を抱かず過ごしている中で、ふと立ち止まって新たに見直してみると、面白い話題が点々としているのではないでしょうか。ここに発想の転換の面白さと豊かさがあります。
この時期になりますと、各幼稚園では「キリスト降誕劇」を、子どもたちが演じてくれます。劇はマリアさまを中心とした話で展開されていきます。神のお告げ、宿さがし、羊飼いたちの来訪、東方博士の訪問等、この中では、ヨゼフさまの存在は控え目です。主に、ルカの福音書から脚本を作っている幼稚園が多いということでしょうか。
待降節第4主日の今日、マタイは、マリアではなく、ヨゼフの立場から「キリストの誕生」を伝えます。違った視点からの「イエス誕生話し」です。そのために、今日の福音書の前に、長い系図を設定しています。
これは重大な意味を持っています。ヨゼフがダビド家の子孫であることが証明されています。つまり、人々を救おうとなさる神の愛が、イスラエルの歴史の中に働き続けていたことの証明でもあります。ヨゼフはいいなずけであったマリアから、ガブリエルからのお告げを知らされた瞬間に、そして、神の愛が決定的となったその瞬間にいあわせた存在であったのです。
それまでの人々は、だれ一人、その目で見ることなどあり得ないことだったのです。だから、ヨゼフは驚きます。たじろぎます。義人だったからです。聖なる神のまえに、自分たちは汚れきっているという自覚があり、神から遠ざかろうとします。これが当時の義人の信仰でした。
「その名はエンマヌエル。わたしたちとともにまします神」。ヨゼフは、このかぎりないあわれみの神に目覚めます。これまた「義人である」所以でもあります。イエスさまの誕生に立ち会うことになります。長い「待ち」の歴史に終止符が打たれたのです。その歴史にヨゼフは居合わせたのでした。
ヨゼフの立場から「イエスの誕生」を見るとき、それは、歴史上一回しかない救いの「事実」に直結していることがわかります。改めて、神のあわれみと人間への愛に感謝するとともに、愛の具体的な現われがXmasなのだということです。神に感謝!
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