年間第20主日(A年)の説教=マタイ15.21~28
2011年8月14日
日本のことわざに「貧すれば鈍す」という表現があります。貧乏になると賢い人でも頭の働きが鈍くなるということ、落ちぶれるとさもしい心を持つようになる、というような意味だそうです。江戸中期より常用されていることわざであるといわれています。
特に、それまで金に不自由しなかった者が貧しくなると、その惨めさが倍加するとか、おっとりしていた者が食べるためにあくせくしてゆとりを失い考えることにも閃きがなくなってくる、というような時に使われます。
いつの時代も、人間が住んでいる環境は、その時代の中でいつもベストとはいきません。神が生きていらっしゃるにもかかわらず、苦しい、辛い日々がなくなることはありません。わたしたちは「どうしてなの?」とつぶやきたくなります。そして、神への道を自ら閉ざしてしまいます。さらには、せっかくいただいた信仰の恵みをも捨て去る場合もあります。
人として生きている限り、また、自由意志を駆使して生き抜いていく限り、人の弱さ、足りなさはなくなることはありません。これが人の生きる現実です。
信仰ある人は、このような時、神につぶやく祈りがあります。いわゆる嘆きの祈りです。人に嘆くのは、その人を傷つけるかもしれないが、神に向かっては大歓迎ではないでしょうか。今日の福音に登場するカナンの母親は、まさにイエスさまとわかって訴えています。まさしく神への嘆きの祈りです。嘆願です。
ツロとシドンの地方は異邦人の世界です。当時のイスラエルの人々の見方に立てば、救いが約束されていない世界、偶像崇拝の世界です。古いおきてや習慣をたてにして、形式にこだわるファリサイ派や律法学者から逃れて、イエスさまはこの世界に飛び出されたのです。
イエスさまが期待する信仰者は、純粋に救いに飢えている人のことです。そのようなイエスさまの前に現れたのが今日の女性、母親でした。しかし、イエスさまの思いはそうであっても、実際の彼女への言葉は冷たいです。どうしようもない娘を持つ母親を、さらに絶望のどん底に追いやってしまう突き放しです。それでも、母親は叫び続けます。
ついに、イエスさまは、この母親の中に、イスラエル人の中から消え去った真実の信仰を見いだしたのでした。「『婦人よ、あなたの信仰はりっぱだ。あなたの望みどおりになれ』。娘はそのときから治った」と。
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