『年間第33主日』の聖書と説教はこちら

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日曜日の聖書

受難の主日:百人隊長や見張りの人たちは「本当に、この人は神の子だった」と言った

受難の主日/枝の主日(A年)の聖書=マタイ27・11~54 イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。
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組織図も簡単に作れる!diagrams.net という無償ソフト

教会はもとより、会社や自分が関わっている団体などの組織図や仕事の流れなどを図で示したいと思ったことはないだろうか?そんなときに使うパソコンのソフトは、何だろう? 人それぞれかとは思うが、満足しているだろうか?
2023年/A年説教=み言葉は「救い」の見極め

主の公現:占星術の学者たちは、「キリスト」に出会いたい人の右代表

占星術の学者たちは、天からのしるしにその心を開き、エルサレムへと向かいます。一方で、ヘロデも「星」について尋ね「わたしも行って拝もう」と言うんですが、その真意は幼子を抹殺することにありました。「星」はすべての人のために輝いています。
日曜日の聖書

神の母聖マリア:羊飼いたちは、マリアとヨセフと乳飲み子を探し当てた

神の母聖マリアの福音=ルカ2・16~21 〔そのとき、羊飼いたちは、〕急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2023年/A年説教=み言葉は「救い」の見極め

待降節第3主日:神のことばを活動の中心に!まずはそのことに目覚めたい

わたしたちは神を人間の思考範囲の中に閉じ込めようとしがちです。人間の思いの中で、いつの間にか神を都合よく利用しようとしているのです。こうした誘惑から解放されるには「時」がかかるでしょう・・・
2023年/A年説教=み言葉は「救い」の見極め

待降節第1主日:キリストの降誕を待つ者は、「わきまえる」ことを知っている

きょうのイエスの招きは「わきまえていなさい」ということではないかと思うんです。「わきまえ」があれば、どのような場面に遭遇したとしても、賢明な判断と行動ができるようになっていきます。これが「待つ」ことの実りではないでしょうか。
日曜日の聖書

王であるキリスト:「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

王であるキリスト(C年)の福音=ルカ23・35~43 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。
日曜日の聖書

年間第32主日:神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ

年間第32主日(C年)の福音=ルカ20.27~38 復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、
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年間第31主日:ザアカイ、降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まりたい

年間第31主日(C年)の聖書=ルカ19・1~10 〔そのとき、〕イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

復活節第2主日:強いて言うなら、イエスはデジタル派かアナログ派か?

人に対するイエスの評価は、わたしたちの弱さ、いい加減さを承知の上で、一人ひとりを受け入れてくださっているということです。デジタルはわかりやすく、確かに便利です。しかし、人の評価は基本的にアナログではないでしょうか。
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聖金曜日:イエスは、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19・30)

主の受難の福音(ヨハネによる主イエス・キリストの受難=ヨハネ18・1~19・42)夕食のあと、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
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聖金曜日はことばの典礼、十字架の礼拝、交わりの儀の3部構成

聖金曜日(主の受難)の典礼祭儀は、普段とは全く違っている。まず祭壇の飾りがない。入祭の歌もない中、神父さんは赤い祭服をつけて静かに入堂し、祭壇の前でひざまずくか伏臥してしばらく沈黙の祈りをささげる。その後祭壇から会衆席に向かっていつもの「祈りましょう」の招きもなく、祈願を唱える。
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聖木曜日:イエスは弟子たちをこの上なく愛し抜かれた(ヨハネ13・1)

主の晩餐の夕べの聖書(ヨハネ13・1~5)過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。
日曜日の聖書

受難の主日:父よ、わたしの霊を御手にゆだねます、と言ってイエスは息を引き取った。

受難の主日/枝の主日(C年)の聖書=ルカ23・1~49〔そのとき、〕民の長老会、祭司長たちや律法学者たちは立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。
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聖家族:イエスが十二歳になったときも、両親は慣習に従って都に上った

聖家族(C年)の聖書=ルカ2・41~52 イエスの両親は過越祭には毎年エルサレムヘ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

待降節第2主日:自らに目覚め、ゆるされたいと願う真剣な自分がいるか?

マイナスやプラスの報道双方に「神からの救いの業のしるし」を見つけていただきたい。わたしたち日本人が大事にしてきたこと、置き去りにしていることは何でしょう。身近なそこにこそ、「神の救いの業の示し」がありはしないでしょうか?
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待降節第1主日:放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように!

待降節第1主日(C年)の聖書=ルカ21・25~28、34~36 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
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王であるキリスト:「真理について証しをするために生まれ、この世に来た」

王であるキリスト(B年)の聖書=ヨハネ18・33b~37  〔そのとき、ピラトはイエスに〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。
2021年/B年説教=新しいいのちの輝き

年間第31主日:神は一人ひとりを愛している。だから、互いを大切にする

一人ひとりの人間の中には神のかたどり、その姿が込められています。人はみな、一人ひとり神から大切にされています。だから、お互いを大切にするのは当然のこと。わたしたちも、自分が尊敬する人が袖にされると嫌な思いになりますよね。
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死者の日:父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである。

死者の日の福音=ヨハネ6・37~40 〔そのとき、〕イエスは人々に言われた。 「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。