年間第4主日(A年)の説教=マタイ5・1~12a
2017年1月29日
為政者の目標は国益を図ることではあるが・・・
「米国第一」を公約に掲げ、実業家のドナルド・トランプ氏(70歳)が、第45代米国大統領に就任しました。「公職経験、軍歴のどちらもない」米大統領の誕生は初めてであるといいます。外交、経済両面で米国の国益を最優先に追及する方針のもと、「偉大な米国」の復活を図ると公約しています。
どの国の政治家も、最終的には自国の国益を考えない人はいないでしょう。とは言っても、これほど期待よりも不安を世界に広げる米新政権は、史上初めてではないかといわれています。その理由は、米国の国益のためなら同盟関係や国際取り決めなどを軽視し、外交、経済など各分野で強権的な主張を展開しようとしているからだといいます。
生きる現場は緊張に包まれた「闘い」の連続!
「生きる」ということは、自分一人だけではどうしようもないと、これまでの経験からわかっていることです。たくさんの人と多くの経験を積み重ね、受けたり与えたりしながら急場をしのぎ、より平和裏に安心して生きることを楽しんできたと言えます。とは言いながら、その現場は緊張に包まれた、いわば「闘い」の連続でもあります。
特に「貧困」と遭遇した時は、人は心身ともに悲惨な状態に追いやられます。もはや、生きるすべをはぎ取られ、これからどのように生きていけばよいのか意気消沈させられてしまいます。いわゆる「負」の連鎖に陥ってしまいます。
だれしも「貧しくても幸せ」な体験があるのでは?
今日の福音では有名な「山上の説教」が紹介されています。その冒頭に「・・貧しい人」という表現が出てまいります。ヘブライ人の「貧しい人」という言葉は、単なる物質的に貧しい状態をさす言葉ではなく、いろいろな出来事によって、はぎとられ、追い詰められていく状態にある人々をさすのだそうです。
慢性の病に健康をおかされ、絶望の境地に落とされ、また、世の権力者たちには搾取され、貧しくさせられてしまった人々も含まれます。
いつの時代も、生きるということは、厳しく、過酷さを伴います。しかし、それが永続することはほとんどの場合ないのではないでしょうか。つまり、その悲惨な状態に置かれっぱなしということは、それの上の生きる状態と比較すれば別ですが、無いような気がします。いつかは、「貧しくとも幸せ」という時が、みなさんの体験からもあるのではないでしょうか。
もっと貧しい現実は、人が人を相手にしなくなった時
とはいっても辛いことは、よき友や先輩、よき師との出会いを逃すことです。また、そうした仲間を失うことです。人が人を相手にしなくなった時に、その人は「人間であること」を捨てるに等しくなります。人としての感性、情の豊かさ等の成長にストップがかかります。自ずと神からも遠ざかってしまいます。こうした人々の心は傷つき、不安に陥り、虚無的になっていったりします。挙句の果ては、人生をやめてしまわないとも限りません。「絶望」「苦悩」とのたたかいが、その人生についてまわります。
こうした状況の中で、心を神に向けて生きるということは非常に困難さを伴うこと必至です。何事に関しても、新たな何かを、動きを始める際には、勇気ある決断が求められます。
それでも!神に委ねることが、イエスさまの招き
イエスさまは「自分の貧しさを知る人は幸いである」と言われます。自分の力で得ることができるこの世の富ではなく、祈りによって神から与えられる恵みだけが人を幸せにすることができる、と言われます。
大きな状況の転換です。それだけに、勇気ある自己決断が求められてきます。いつの時代も、赤ちゃんがその身をお母さんに委ねているように、わたしたちも神にわが身をゆだねていますか、というイエスさまからの呼びかけであり、お招きでしょう。山上の説教の冒頭のこの一節に、「幸せ」のすべてが表現されているようです。
今のわたしたちも、人とのかかわり合い通して平和と安全と幸せを、世界中の人ともに構築していきたいものです。
この世の為政者に豊かな恵みあらんことを祈りたいです。
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