待降節第1主日(A年)の説教=マタイ24・37~44
2016年11月27日
わたしたちはある人と出会い、そして、別れ、また、新たな出会いをします。この出会いと別れの繰り返しを通して、徐々に人としての成長を遂げていきます。ある時は攻め、または、待つことを覚えていきます。そして、出ることを覚え、身を引くことを学んでいきます。
こうして、全体にバランスのとれた品格を備えていくのです。完璧ではなくても、生きるに十分な、互いに役に立つ存在者になっていきます。
今日から待降節に入りました。「人の育ち」に例えることがゆるされるなら、この時期、待降節は幼少期に当たるのかなと勝手に思ったりしています。
幼少期は、人として、信仰者としての育ちの苗床が芽生え、成長してくる時期です。それだけに大事な、重要な期間であるということができます。何よりも、その人の将来の生きる道が方向づけられる準備期間であるからです。じっくりと「わたし」を見つめ、個の完成を目指したいものです。
ところで、待降節は何を待ち、準備するのでしょうか。今日のみ言葉は「神はすべての民を永遠の平和に招かれる」「救いは近づいている」「目を覚まして用意していなさい」と、わたしたちに語りかけます。つまり、やがて訪れる「救いの時」を語っています。それがいつ来るのか、誰もはかり知ることはできません。神からの一方的な業なのです。だからこそ、心して準備しなさいと訴えているのです。
その心を育てるためには、自分の力と限界をしっかりとみつめることでしょう。謙虚に待ちつづけながら、信頼の心が育っていくのを希望していくのです。すなわち、自分の力では自分を救うことなどはできないという現実を、感じ取る心を養っていくのです。
謙虚が忍耐を生み、さらに希望へと発展し、そして確信へと高められていきます。「わたし」の信仰者としての苗床が固められ、信仰がしっかりと根をおろしてくれるようになります。そう願って今を生きることでしょう。神は、わたしたちに向かって働きかけておられます。
始めは肝心です。その働きかけにいかに気付くかです。そのための準備をいたしましょう。神からの「一方的な業」とはいえ、だからこそ、備えが必要です。神の業が日常の中で、わたしたちにとって、生きる大きな力となってあらわれてくるという実感が、確かなものであると高めていくのです。
神との交わりを持ってこそ、信仰者としての感性が育ち、神の働きかけに、より気付いていけます。神のふところの何たるかを、待ちながら実感していきましょう。
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