聖霊降臨(C年)の説教=ヨハネ14.15~16、23b~26
2016年5月15日
「苦しい時の神頼み」の心境は、いつの時代であっても、国に関係なく、等しく誰もが持ち合わせているのではないかと思います。このような思いを抱くことが、悪いことのように考える人があるようですが・・。少なくとも、「弱い人」のサインであるかのように感じている人はいるような気がします。しかし、人がなんと言おうと動機は何でもいいのです。その人にとって「苦しい時」というのは重要な動機だからです。
いつも思うことですが、人間、生活していく中で「無駄」が無駄で終わることはないということです。どこかで次のステージへの力となっているはずです。ある一つの実りが出て初めて、あの時の「無駄」のおかげなんだということがわかります。このようなことってありませんか。
今日は聖霊降臨の大祝日です。聖霊が使徒たちに降り、教会が誕生したことを思い起こしましょう。また、その同じ聖霊がわたしたちの今の日常にどのような意味があるのでしょうか。
聖霊、神の霊を感じているでしょうか。神の霊は人知れずそっとわたしたちに近寄り、体に感じるショックもなく、しっかりとわたしたちを支えてくださっています。「今」を保つだけでなく、新たな存在を与えてくれるのです。いわゆる、「わたし」の新たなステージ、成長です。その働きを感じなくても、聖霊が関わってくださっているからこそ、わたしたちの一挙手一投足に「無駄」はないのです。すべてつながっているのです。
仮に罪に汚れ、罪の中にどっぷり浸りきったとしても、わたしたちを変えていくべく働きかけてくださるのです。わたしたちの弱さを支え、助けてくださいます。わたしたちの日常生活のひとこまひとこまに関与し、力強く働いてくださいます。
大事なことは、言動の動機付けではなく、聖霊が働きやすい環境を自分の中で作っているかどうかです。どうすればいい環境づくりができるのでしょうか。「無である」こと、ことばを変えれば、神の働きに対して「受身的存在者」になることでしょう。身を任せる姿そのものを意識できればいいのでしょうが。そこには「我(が)」はないのです。「我」が聖霊の働きを妨げている場合が多いからです。それを除いてもらえるように聖霊の働ける環境をまず整える「委託」とは、・・?!
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