復活節第5主日(B年)の説教=ヨハネ15.1~8
2012年5月6日
わが子が親の言うことを聞いてくれるのは、はたして何歳までなんでしょうか。子育てが終わって振り返ってみますと、なんとなく懐かしく、しかし、ゆとりを持って思い出すのではないでしょうか。そのことは当時は一生懸命であったということの証ですね。
昨日は「こどもの日」でした。15歳以下の子どもたちは、人口調査を始めて以来31年連続で減少。史上最低の人数になったとか。昨年より約12万人の減で1665万人ということです。少子化傾向はなかなか止まらないようです。それでも、前年比で増えたところがあります。東京と福岡の2箇所だそうです。
統計的な問題だけではなく、大事なのは子どもたちの「育ち」です。日本は「ひとまとめ」式の子育てが大事なようで、その枠からはみ出す子どもたちは問題視されます。この弊害は(?)他の新たな弊害を引きおこしていきます。類は類を呼び込んでいくのです。悲しいかな、なかなか全体像が見えません。
子どもが小さいときは気づかなかった親子の絆を、子育てが終わった今、意識させられることがあるのではないでしょうか。つまり、子どもが小さいころは、意識しなくても、口で言わなくても、親子はつながっていたのです。何のお返しも期待しないで子どもの成長に手助けしてきたのです。そして子どもは親元にとどまっていたのです。それが、大きくなってきますと、自己主張が始まり、親元にとどまるのを嫌がってきます。そうです。物理的には離れていても、親子は紛れもなく親子です。
イエスさまが今日のみ言葉で、わたしたちに送るメッセージは、「わたしにとどまっていなさい」ということです。そこには、相手に自分を任せられる安心感が前提となります。つまり、「信頼しなさい」ということと同じになります。
今日の福音では、イエスさまは何回となく同じことを繰り返されます。「わたしにとどまりなさい」と。これまた、イエスさまの弟子たちへの配慮であるし、そのおかげで、絶体絶命のとき(イエスさま死去のあと)、自分を立ち直らせる大きな力となっていったのでした。イエスさまがおっしゃったとおり、「望むものは、・・・なんでもかなえられる」のでした。
イエスさまの受難と十字架の死によって、自分たちの弱さが暴露されたことによって、使徒たちは、イエスさまの愛とあわれみにつつまれた信仰に目覚めたのでした。イエスさまのところにとどまり続けることができたのでした。とどまり続けた信仰が、今のわたしたちにも引き継がれているのです。目覚めたいですね。
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