年間第18主日(C年)の説教=ルカ12.13~21
2013年8月4日
「富は多くの友人をつくるが、貧しい人は友人に見捨てられる」(格言の書19章4節)とか、「金持ちが滑ると助ける人は多く、ばかなことを話しても、人はもっともなことだという。しかし、身分の低い人が滑ると、人々は彼を責め、たとえ賢いことを話しても、何の注意も払わない」(シラ書13章21節~22節)。
旧約聖書のこうした下りを見ますと、昔も今も「財産・地位・名誉」に関する人の思いは、現代人とそう大きな隔たりがあるようには思いません。金持ちはおだてられ、丁重にもてなされます。富に恵まれれば、どんなに愚か者でも賢者に見え、もてはやされます。
確かに、人生の表面をきれいに飾り立て、自分の愚かさやダメさ加減を覆うことはできますが、財力だけでは根本的に変革はできません。変革とはその人の成長です。
わたしたちの日常は何かにつけて他者と「違い」があります。そして場合によっては、それがその人の「人として」のランク付けにとって代わることもないとはいえません。
「蓄える」という時、普通は子や孫たちに残す財産、資産のことをいうような気がします。「わたしのもの」ではありますが、だからこそ、財産の分かち合い、喜びの分かち合いをしたいものなのです。これが普通の人間の姿かなと思いますが、・・・。
ところが、今日の福音の主人公は神への感謝どころか、他者への分かち合いにもほど遠い生き方です。喜びも、日常得る糧も、財産もすべて「わたし」のためであって、その上悪いことに、「蓄えること」自体が目的になっているような気さえします。つまり、自己満足で終わるとはなんともったいないことでしょう。わたしたちは常に他者に開かれています。自分とともに他者に関心をもつことがいかに大切であるか、に気付くことではないでしょうか。
わたしたちがこの世を去るとき問われるのは、どれだけモノ、お金、名誉、不動産を貯めたかではなく、どれだけ善行を積み上げたかでしょう。善行とは、他者に開かれていないかぎり履行できません。苦しい、困難な状況にある他者に奉仕することです。こうして積み上げていくことができます。その行為によって、他者に安心感を提供し、あたたかな手を差し伸べることになります。
自分に閉じこもることなく、他者に開かれることによって神に出会いましょう。
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