年間第18主日(B年)の説教=ヨハネ6.24~35
2015年8月2日
一般に、人は「自分のことは自分が一番知っているので、・・」と言いますが、果たしてそうでしょうか。そんなに言っている傍らで、「そうじゃないだろう」とささやきかけてくる別の声を感じます。
「そのものが何であるのか」を調べ上げていくと、新しいことが分かってくることは言うまでもありません。よく考えるまでもなく、わたしたちの周りは、わからないものだらけであるといえます。だからといって、生きることに支障があるかと言えばそうでもありません。知らないことが気にならないからです。
ところが、自分の中に不安を感じるとにわかに落ち着きがなくなります。気になってしょうがないのです。不安の原因がなんであるのかよくわかりません。しかし「わからない」ことがかなりの影響をその人に与えてしまいます。このようなことは多くの方が経験済みではないでしょうか。
つまり、自分の外で起こる出来事は、自分の気持ちに格段の刺激、影響がないかぎりすべてが気にならないのです。一方で、自分の内側で起こる出来事は、それがどんなに些細なことであれ、気になってしまうものです。
今日の福音に登場する群衆、弟子たち、使徒たちにはこうした気持ち、心の揺れを感じます。群衆の皆さんはイエスさまが言われることが全く分からなかったのです。「わからない」段階ではまだ心のゆとりがあります。
弟子たちがわかるかわからないかに関係なく、イエスさまは、おっしゃったことを修正しようとはなさいません。つまり、他の表現に言い換えて説明をなさらないのです。そのことが意味するのは、「わたしが命のパンである」ということを啓示することの重要さが言われています。
ご聖体に対する信仰の中心になるものです。わたしたちはご聖体に生かされているのです。わたしたちの日常は、信仰者として道徳を実践することだけにあるのではなく、ご聖体を大事にする心をいつも認識しておく必要があります。
「わたし」の命はご聖体に支えられています。自分の命であって、自分の命でないような、・・ここに信仰の神秘があります。ここに、命の根拠があります。導かれてイエスさまのもとへ、・・・。
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