
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
年間第6主日(A年)の説教=マタイ5・17~37
2026年2月15日
異なる視点から書かれた記事であろうと思います。
「2022年7月8日午前11時半ごろ奈良市で参院選の応援演説中だった安倍晋三元首相=当時67歳=を銃撃し殺害したとして、殺人や銃刀法違反などの罪に問われた山上徹也被告(45歳)の弁護人は4日、求刑通り無期懲役を言い渡した一審奈良地裁の裁判員裁判判決を不服とし、大阪高裁に控訴した。・・・弁護側によると、一審で、不遇な生い立ちが動機に結びついたとし、被告は「宗教が関わった虐待の被害者」で、経緯を社会復帰後に生かすべきだとして、量刑は20年までにとどめるべきだと訴えた。」
これに対して地裁判決は「生い立ちは不遇な側面が大きいと認める一方、殺人を決意し実行する意思決定に至ったのは大きな飛躍があるなどとし、犯行への影響を否定。被告が教団に怒りを抱き、教団に影響力がある人物と考え襲撃した安倍氏に落ち度は見当たらず、他者の生命を軽視する態度が顕著だと指摘」したのです。
また、別のコラム記事にはこうあります。
これらの報道を読んで思います。
人は人の心の中の思いを見抜き、それに判断を施すことはできないということ。表に出てきた見えることに対しては白黒の判断ができるとしても、人の心の中にある心情、思い、考えに対しては、完全に把握することは無理なことです。ましてや、それらに白黒の判断を下すことなんて到底できる話ではないような気がします。
先に記した「襲撃事件」は、心の奥にある「思い」と深く関連する事件のように思えます。大変難しい、心痛む事件です。それだけに、人が人を裁くことの困難さ、辛さ、苦しさが伝わってくるような事件でもあります。
きょうの福音は、わたしたちが日常、見落としているかもしれない行動視点を、イエスは指摘されているような気がします。イエスは山上の説教を聞く人々に対して、「律法学者やファリサイ派の人々にまさる義」を求めます。「義」とは、神との関係を大事にする姿勢、すなわち、戒めに込められた神の思いを聞き取り、その声に応じた行いを行動に移すことを表します。

「あなたがたも聞いているとおり、・・・・・ しかし、わたしは言っておく。」という言い方が、きょうの福音書では何回もくりかえされています。モーセの十戒に慣れ親しんできた者だけでなく、イエスは、すべての人がこうした掟を知っているということを前提にします。そして、外見的に見て、悪い行いをしなければそれでいいという安易な考え方に対して挑戦していくのです。形となってあらわれる殺人、姦通、偽証などという行為は、突然あらわれてくるものではないでしょう。衝動的と思われることであっても、形としてあらわれるまでには、心の中で積み重ねられていたものがありはしませんか。いわゆる、心の内なる動き、気配があったのではないでしょうか。
はっきりと誰にでもわかるあやまちとなる前に、隣人をおとしめたり、自分のわがままを通したり、他の人を押しのけたり、高慢にも人を批判したり、軽蔑したりする心の内なる動きです。現在もなお、わたしたちの周りで起きる戦争、もっと身近には、殺人、強盗、さぎ、暴行などはこうした心の動きが、その始まりになっていないでしょうか。ときには、自分でその衝動を抑えきれないほどに激しくなる時があります。その時に外的に見える姿を取ることがあります。いわゆる、犯罪として他者にもわかる形を取るということです。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」とイエスが言われるとき、イエスはすべての悪の根源である、うちなる本能的な欲望に、真正面から立ち向かうことを求めていらっしゃいます。自分のうちにある醜い、不条理な欲望を、それをまさに、殺さない限り、いつ、それが形となって外に表れてくるかわかりません。
十戒には、「殺すな」とあります。イエスはこの掟に、どのような人のいのちでも、神にとっては無関心でおれないその思いを読み取ります。何も人の生命だけでなく、いのち全体(人格)なのです。兄弟との和解は神との関係の修復と表裏一体です。ここに神の思いがあります。
これに続く他の犯罪行為についても、イエスは神の思いを読み取ることなしに、ファリサイ派の義にまさる「義」を「わたし」が得ることはできないと言われているようです。
つまり、心のうちから清らかに、先ずは、わたしたち一人ひとりの闘いから始まります。



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