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年間第33主日:人として、信じる者として「生きる」信条はどこに・・・

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年間第33主日(C年)の説教⇒2025/11/16

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

年間第33主日(C年)の説教=ルカ21・5~19

2025年11月16日

人には、それぞれに大事にしている、いわば、生きる「信条」としているものがあるのではないでしょうか。そして、それが日常の現実の中で、必ずや大きな力となっていることでしょう。そのことを意識しているか乃至は意識できているかによって、一人ひとりのその人の生きる姿に、その「信条」が見えてくるのではないかと思います。

しかし、実際の姿はそううまいこといかないのです。これがわたしたち人間の生き方ではないのでしょうか。志はあっても、それが現実の生き方にそのまま反映されてこないのです。このことについては、例外なく(?)万人が認めるところではないかと思うのですが。それでも、わたしたちは少しでも自分の思いに忠実であろうと努力はしているのです、・・。

信条とは、個人や組織が大切にしている価値観や信念、行動の指針となる原則を指します。 これは、人生において重要な判断基準や行動指針を示すものであり、例えば「不言実行」や「ポジティブ思考」などが含まれます。また、信条は宗教的な教えや道徳観とも深く関わっており、特にキリスト教では信仰の基本をまとめた教義を意味します。」 (ワード辞典

という説明がありました。これによりますと、悪いことをしようという「信条」はないようですね。でも、「個人が大切にしている価値観や信念、行動の指針となる・・」ということを単純に考えますと、その人が中心ですから、本人がその気になれば、悪いことにも言えることになりそうです。だから、悪いことが広がっていくのでしょうか。なんだか新たな決まりができると、必ずと言っていいほどに新たな悪い手口も誕生します。人により価値観が異なることはいいことだと思っていますが、それがマイナス方向に作用するのでしょうね。残念です。

ところで、今年の典礼歴も終わりを迎えようとしています。それもあって、きょうの福音では、終末とそれに先立って起こる出来事をテーマとしています。

きょうの福音でイエスが語るできごとは、中近東の世界の、日々の現実なのです。イエスの時代においても、中近東の世界は複雑なものでした。パレスティナという地域は、交易の要路になっていたのです。そして、当時の大国バビロン、ペルシャなどが、地中海に勢力を伸ばすためにはまず、このパレスティナを侵略することであり、ギリシャ、ローマがアラビア半島やアジアに向かって進もうとするならば、やはり、このパレスティナを支配下に置くことが第一でした。

年間第33主日:忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。
年間第33主日(C年)の福音=ルカ21・5~19 〔そのとき、〕ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

こういうわけで、パレスティナは絶えず大国の侵略目標にされていたのです。一方で、東西交流の要路にもなっていたので、さまざまな民族が流れ込み、交流ができるのはいいのですが、民族間の争いに発展することもしばしばでした。それぞれの暮らし方、考え方の違いから対立が生まれるのです。また、利害関係も生じてきます。利益等が絡んでくると、民族の存亡に係るような問題も起こり、対立がいやがうえにも激しくなっていきます。そうなってくると、迫害、虐待等が当然のこととして生まれてくるものです。

イエスの言葉は、こうした状況の中で語られました。イエスは、誰かが、たとえキリスト者だからといっても例外ではありません、と言われます。信仰すれば家内安全、商売繁盛が保証されるわけではありません。歴史の現実から逃れることはできないのです。イエス自身、天のおん父のみ旨を生きるという使命を最後まで、十字架上で息を引き取られるその瞬間まで果たされました。信仰ゆえにその命まで奪われたのです。

その一方で、わたしたちはといえば、弱くもろい存在です。それゆえに、恐れと不安に襲われ揺さぶられます。苦しみ、辛さに打ちひしがれます。一人ひとりは弱さ、辛さを通してその信仰と使命を生きていくように、とイエスは励ましてくださいます。イエスは言われます。

「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21・14~19)と。

人の問題と共に建物等に関しても同じように歴史の現実に左右されます。当時のユダヤの人々は、エルサレムの神殿こそ神がとこしえに住まうところと考えていました。ですから、神殿が壊される、崩される「日が来る」というイエスの言葉に驚き、その「徴」を尋ねます。イエスの答えは「惑わされないように気をつけなさい」という注意で始まります。

これは、人間を取り巻く環境がこうした状況にあるとき、今でもそうですが、いろいろな意見、勧誘等が出現してきます。イエスは言われます。

「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」(ルカ21・8~9)そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。」(ルカ21・10~13)と。

終末のことを語りながら、「これらのことがすべて起こる前に」と言って、ルカはわたしたちを現実に引き戻します。そこは、わたしたちが託され大切な使命を果たす場なのです。ですから、惑わされることなく、「今」を忍耐強く生き抜きなさいとわたしたちを励まされます。

そこが、すぐれた「いのち」を獲得するための道でもあるからです。

「わたし」の人として、信仰者として、生きる「信条」はどこにあるのでしょう・・・?

 

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