
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
四旬節第3主日(C年)の説教=ルカ13・1~9
2025年3月23日
日本のみならず、世界中で毎日、残念ながら、むごたらしい事件事故が起こります。中でも、人に関する事件、つまり、人が殺された、刺された、人が誘拐された等の悲惨な事件です。以前にも似たような事件はありましたが、今のようなむごい悲惨な事件とはならなかったように思いますが、・・・いかがでしょうか。それでも事件は事件です。これまでも、こうした事件は存在したのですが、昔は、表に知られるような形になっていなかったのでしょうか。
単独犯ばかりでなく、特に現代では、集団的な連携をつくって殺人事件等を起こすやり方が主になってきたような、というより目につきます。これでは、みなが安心して、安全に生活できること、これが一番危ぶまれてきます。特に高齢者が、中でもひとり住まいのお年寄りがターゲットにされて被害を被っているようです。
以上のように書きながらふと新聞に目をやりますと、いちき串木野市の旭小学校・学校運営協議会が、文部科学大臣賞を受けたというニュースが目に入りました。悲惨な悲しく寂しくなるような出来事ばかりではなく、ホッとするような、安心できる出来事もひっそりとした場所において繰り広げられているのも現実です。何も静かな寂しいところばかりで起きるのが「喜ばしい出来事」なのではありませんが、ホットなニュースが多い方がそれこそホッとしますよね。(南日本新聞2025年3月18日朝刊)
いちき串木野市の話ですが、学校運営協議会によりますと、当協議会は地域住民や保護者らでつくり、児童がさまざまな体験をできる「寺子屋活動」に取り組んでいるとのこと。住民が講師となり、これまでに地域資源を生かした川遊びやそば栽培、伝統芸能「虚無僧踊り」の伝承などを実施しています。通学路の安全確保にも尽力しています。
こうした地味な奉仕活動を通して、それが続けられ、いちき串木野市の場合は、旭小学校を核とした地域づくりを推進してきたのです。委員の平田隆一さん(76歳)は「いきいきとした子どもたちが印象に残る。校区の良さを知ってもらえるよう心がけてきたことが認められて光栄」と喜んでおられます。
こうした様々なニュースは、ある時はわたしたちをがっかりさせたり、ある時には励ましてくれたり、置かれたその時の心身の状態によっても影響されます。でも、どちらかといえば、否定的な印象がわたしたちの中に残ってしまうのが普通のような気がします。わたしたちが陥りやすい、いわゆる「思い込み」が影響するのでしょう。これは、これまで歩んできた「わが人生」の産物みたいなもの、ともいえます。そうそう簡単にはなくならないでしょう。それでも、訂正しなければいけないのです。今日の福音でイエスはそのように諭されます。

わたしたちは生きてきた歴史からたくさんのことを習得し、また納得して成長してきました。歴史から学んだことは、かなり大きな影響をその人生に及ぼしています。それだけに訂正することにかなりのエネルギーを必要とするでしょう。
しかし、歴史を動かしているのは「わたし」だけではないのです。神も関与しています。両社の共同作業によって動いていくのです。歴史の中で、突然起こる出来事について噂するとき、中でも不幸な出来事の場合、誰かが悪いことをしたからだとか、あの人は罪深い者だからとか、いわゆる天罰が下りたのだ、というふうに考え、言うことがあるとすれば、「そうではない。皆等しく罪びとである」ということに目覚めることです。だからこそ、皆は等しく悔い改めなければいけないのです。イエスは次のように指摘なさいます。
「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びル。」と。
一方で、神はどのように働かれるのかということが示されているのが6~9節の箇所でしょう。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこ。で、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
このたとえ話の中で、ブドウ園の主人とその管理を委ねられた園丁の会話を通して 、神の忍耐と葛藤が描き出されています。神はじっと忍耐強くどこまでも待っておられるのです。神とともに働く人を求めています。人の働きを無視して「神が歴史を動かす」と考えるとき、怠惰をむさぼり、日々が無駄になりはしませんか。
神と人とが共に働くことによって歴史が動きます。
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