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説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
年間第7主日(C年)の聖書=ルカ6・27-38
2025年2月23日
人口の減少に伴う負の現象が少しずつ表面化してきます。すごく残念なんですが、学校閉鎖があちらこちらで聞かれます。特に小学校です。それがまた、長い歴史を刻んできた学校がほとんどです。その上、立地場所が、その地域の中心街よりも多少離れた場所に位置しています。
先日の新聞紙上に、三校の小学校の閉校に関する記事が掲載されていました。(南日本新聞2025年2月17日朝刊)一つは錦江町の大原小学校です。来る3月に閉校することになっているとのことで、卒業生や住民のみなさん200人以上が集まって、8日に惜別の会が行われたそうです。飲食をしながら138年の歴史に思いを馳せたとのこと。大原小は1887年(明治20年)に大原簡易小学校として始まりました。かつては300人以上いた児童も現在は7人となり、田代小学校に再編統合することが決まっています。
60年ほど前に初任校として赴任した地元の中原照幸さん(81歳)は「当時は1学年2クラスあり、運動会が盛り上がったのが思い出。赴任した学校の閉校が続いており、寂しい」と語っておられます。
また、南九州市でも閉校が相次いでいます。同市川辺の清水小学校が2026年3月で閉校します。そして、本年3月末で松ケ浦小学校が閉校します。そして、残った同市の小学校の数は全部で14校になります。
最初の清水小学校は1878年(明治11年)創立。戦後70年代ごろは200人前後の児童が在籍していましたが、少子化で減少傾向にありました。市は閉校後の施設の活用策について、地元住民のみなさんと協議を始めたそうです。
不思議なもので、自分の利害と関係のない人、出来事等との別れ時は、過去の人、ものごと等とのかつての出会いが、すべて美化されてしまいませんか。普段だと苦しいことがあれば、そのことの方が気になって、楽しいこと、嬉しいことなどは思いの外に置き忘れてしまうのに。また、苦しかったことなども「懐かしい思い出」の中にくるまれてしまって、懐かしんでしまう傾向があるような気がします。
したがって、楽しくうれしいことも、苦々しいことなども一緒くたにして過去の体験記、「自分史」の中に取り入れらていきます。
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しかし、きょうの福音では、イエスは「敵を愛しなさい」と、いまだに「敵」として存在しているその人たちを愛しなさいと言われます。「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」と。
自然の感情に従えば「敵」は憎みの対象となり、倒したくなるものであり、また、逃げ出したくもなることがあります。したがって、「敵を愛する」ためには、わたしたちの自然の感情を超える何かの力をいただき、「敵への愛」を可能にしてくれる結果をもいただきたいのです。その力とはいったいどんなものなのでしょうか。
そのヒントになるやもしれないみ言葉があります。
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ6・31-36)
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」は、人間関係をスムースにしていくための大原則です。「黄金律」と呼ばれています。このことは神への信仰がなくても成り立っていく指針です。ところが、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」は、神のあわれみ深さを体験していなければ意味のない指針となります。
「黄金律」と呼ばれる指針は、敵と思われる相手から大事にされている、愛されているということが分かればおのずと嬉しくなりますよね。だから、神への信仰とは関係なくありうる指針です。なんだかんだ言っても、やはりわたしたちは「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」と言われているような罪人にすぎないことを認めざるを得ないのです。ここで言う罪人とは後者の方でしょう。
現代に生きるわたしたちはどうでしょうか。「神を信じている」と思い込んでいるだけではないんでしょうか。「信じているつもり」で終わっていないか、信仰を深め高め、そして、豊かにしていくには日々の小さな、卑近な生き方の中で、その思いは膨らんでいくものでしょう。わたしたちがいるべき場所にいて初めて、神も関与してくださいます。神のあわれみを感じられますように。神はイエスの十字架上の犠牲の形で、神のあわれみ深さを示してくださいました。この神に目を向けましょう。示された神のあわれみ深さを感じられますか。
日常の動きの中で、神を信じ切る「わたし」でありますように・・。小さな努力を重ねつつ。
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