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待降節第3主日:救い主に出会う最高の準備は日常生活での「隣人愛」実践

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待降節第3主日(C年)の説教

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

待降節第3主日(C年)の説教=ルカ3・10~18

2024年12月15日

みなさんにとって、きょうの福音書の中で、特に気になる言葉はありませんでしょうか。わたしは、なぜか気になってしまったのです。

わたしたちが、いつも、み言葉を読み、黙想をしようとする時に大事にしておきたいこと、その一つは、自分が気になるみ言葉を心に留めること、その反対で、やたら目障りになるかな、というみ言葉を取り上げてみること、この二つがあるのかなと思います。両方とも同じことを言っているんですけどね。でも、人それぞれですよね。

もちろん、そのみ言葉は、今の自分の生活現場において関わりのある、時には切実なメッセージを自らに知らせてくれる内容を含んでいるから気になってしまうんでしょうね。そうした視点からきょうの福音を見てみますと、「わたしたちはどうすればよいのですか」という言葉が目に留まります。三度も繰り返されています。荒れ野で叫ぶヨハネの言葉は、人々の心を揺さぶったのでした。

ところで、クリスマスを迎えるにあたり、本来わたしたちは何をなすべきなんでしょうか。当時の人びとだけではなく、今に生きているわたしたちも問いたださなければいけいないことのようです。

クリスマスは、いまや、地球上のあらゆる国の人々がお祝いする祭りごとになっています。地域、場所によっては10月の声を聴くと、にわかに血が騒ぐのか、じっとしてはおれなくなってしまう人々もいらっしゃるようです。わが国においても、11月末になると、「クリスマス商戦」と銘打って、商売上のアドバルーンが高々と舞い上がります。毎年の恒例行事となっております。この中に、救い主を迎えるという切実な緊張感がみられるでしょうか。ただ、年間行事の一つ、クリスマスを迎えるとい安易さに毒されていないでしょうか。イエス時代の人々の心から引き出された「わたしたちはどうすればよいのですか」という自覚が、わたしたちの中にあるのでしょうか。

今一度、わたしたちは、少なくとも祭日を前にいつも、原点に戻ってみてはどうなのかな、・・・と。ヨハネの時代はまさに「その時」原点だったのです。

待降節第3主日:ヨハネはさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げた
待降節第3主日(C年)の聖書=ルカ3・10~18 〔そのとき、群集はヨハネに、〕「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。

長きにわたって救いを待ち続け、祈り続けてきた民にとって、その救いが訪れるという期待感は、一年の恒例行事の一つという軽々しいものではなかったのです。彼らの祈りに答えが与えられるという出来事は、人々の心を変え、その生き方を変えてしまう実存的なものでした。だからこそ「わたしたちはどうすればよいのですか」という問いが、自ずと湧き出てきたのです。この言葉には、人々の並々ならぬ思いが込められているのです。救い主と出会うならばどんなことでもしますという意気込みです。

また、彼らはヨハネから厳しい指導を受けていたと想像されます。したがって、ヨハネの出す指示も、きっと厳しい内容であろうと期待したのではないかと思いますが、ヨハネの出したそれは、彼らにとっては意外でした。

「そこで群衆は、『では、わたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ』と答えた。

徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。

兵士も、『このわたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ』と言った。」

救い主に出会うための準備が、わたしたちの日常とかけ離れた特別な準備であるならば、それができない人がたくさん出てくるのではないかと想像されます。これでは、はじめから差別感が満載です。神がそのような不公平をなさるはずもありません。ヨハネの答えはわたしたちの生活に密着したものでした。しかも、質問した人々の仕事や立場に応じた内容のものでした。しかもそれぞれに置かれた場において、その状況、役割、仕事場の中で、隣人愛を勧めたものになっているということです。

一方で、彼らの待望の対象はより具体的でした。彼らはメシアを待ち望んでいたのです。そこでヨハネが担ぎ出されました。ヨハネがメシアではないかというのです。自分たちの努力の限界をよく知っていたからです。つまり、ヨハネの出した指示の重要さもよくわかります。同時にそれらを完全に実行する困難さを肌で感じているのも事実です。なので、メシアを通して行われる神の介入が先行しなければヨハネの指示に従いきれないのです。

きょうの福音は、救い主との出会いのために、もっともすばらしい心がまえ、準備するものは隣人愛の実践であるということを勧めています。それも、それぞれが生きている具体的な場においてのやさしさ、思いやり、いたわりが勧められています。その価値を評価しているのがパウロの「愛の賛歌」でしょう。(Ⅰコリント13章1∼8参照)

わたしたちの生活の中での隣人愛の実践。それが救い主に出会うための最高の準備であるとの勧めが、わたしたちにとっては慰めであり、前に進むエネルギー源となりますように、・・・・・。

窓の外はにぎやかです。クリスマスを迎える準備で盛り上がり、心身で喜びを表現しています。その喜びの勢いを超える信仰の喜びの炎を燃え上がらせたいですね。

イエス・キリストよ、来てください。わたしたち一人ひとりと生活の間に・・・。

 

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