待降節第1主日(C年)の説教=ルカ21・25~28、34~36
2024年12月1日
暑い暑いと言っているうちに、いつの間にか12月・師走ですよ。春夏秋冬の季節感があったあの頃はどこに行ったのでしょうか。自然界は、みなが感じている超異常気象現象です。
かつて、季節の移り変わり目には、何かと体調の変化をきたし、しかし、そのたびに体に免疫を会得していた、いわば、心身の健康をより豊かにしていた自然界の大きな恵みがあったように感じています。自然から、確かに、大きな、絶えず前に進むエネルギーをいただいていたのではないでしょうか。
これまでは、自然界と人間界の調和が保たれ、見事な、気持ちのいい日々が送れていました。それが、人間界の勝手な都合から、その調和を、あえて壊しにかかったのです。一方の都合ばかりを受け入れていると、もう一方は隅に追いやられてしまいます。こうして自然界は受難の時代に入って行ったのでしょう。人間界が反省し、回心することを、長年願っていたでしょうが、なかなかでした。そして自然界の我慢も限界が来てしまったのでしょう。今では異常なほどの現象が、実際にわたしたちの日常を困らせていることが現実です。地球温暖化による災害、四季の乱れ、酷暑、極寒、それも長引きます。
その調和の乱れの具体的な出来事として、他にもわたしがずっと思ってきたものがあります。自然環境が変わることで、人間自身もそれに連れて変化しているのではないかということです。日常わたしたちは、自然界の影響を受けて、例えば、花を愛でることによって芽生え育った一人ひとりの心情、豊かな気持ちと表現等。むしろ、そのことを、つまり、美しい景色、景観を楽しみにしながら成長してきたところがあるのではないでしょうか。
ところが、最近は自然界の影響を受けてきた「人となり」が、その質を落としてきたのではないかと気になっております。さらに悪いことに、社会全体もその動きに同調し、もっと安易に、楽に過ごす術を追求し、推奨し、怠け心を煽ってしまっているのではないでしょうか。わたしの勝手な妄想であってほしいです。
今の教育現場で、教師の間では、「合言葉」は、「教師の質」を刺激し、高め、豊かにしていくにはどうすればいいのか、現場では苦労の連続です。苦労する価値のあることであれば幸いです。が、「暖簾に腕押し」といった感じがしなくはありません。要は、教師お一人お一人の意識、目覚めがどこにあるのか、ということではないでしょうか。いくら周りの人が言っても、配慮してあげても、ご本人が気づかないことには、新たな変化は生まれてきません。回心はあり得ないのです。
また、公立学校と私立学校では大きな相違点があるやもしれません。置かれている立場・財政において、人材の視点からも、運営に当たっては、異なる点が生じるからです。新たな苦労は、さらなる新たな苦労を生み出します。
きょうから待降節です。イエスのご降誕を待つ期間です。つまり救いを待ち望み、そのために一人ひとりの心を準備する期間なのです。したがって、それは救われることを望み、そのことを希求する心があってこそ、この期間の過ごし方に意味が出てくるのではないでしょうか。
わたしたちの人生に苦労はつきものです。苦しみや悩みのない人生が、現実的にあるでしょうか。その原因も様々です。自然界と人間界の不調和からくる心労は、全体的な悩みになってしまいます。確かに自然界は破壊されています。され始めています。今、どこかで誰かが止めないと、あっという間に地球という星も息絶えてしまいます。これらの天候不順、あらし、台風、地震など、自然界の大きな力によって、わたしたちの日々の生活が押しつぶされてしまいます。人間の小さな力ではどうすることもできません。それほどに荒々しく悲惨なものです。
きょうの福音に、よく似た現象の場面が描かれています。そしてルカは言います。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」と。
「人々」にとっては、この世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うことになるが、イエスを信じている「あなたがた」にとっては解放の時となる、と。人生の苦悩や不安の闇におおわれてしまうことを知りつつ、それに押しつぶされないように、頭をあげて天の神を仰ぐようにと、イエスは勧めます。
それは、キリストの十字架上のいけにえ、その血によってわたしたちは自らの罪がゆるされ、しかもそれは神の恵みによるものでした。つまり、わたしたちは過去の「贖い」の恵みにより解放されたのです。人の罪をゆるす贖いの業を信じているがゆえに、イエスの再臨は「恐怖の日」で終わることはないのです。イエスはさらに忠告なさいます。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」と。そして普段は、いつも目を覚まして祈りなさいという戒めの中に生きるように。
救われたとはいっても、われわれはすぐに心が鈍ってしまいがちです。だから戒めの中に生きることになります。不協和音の美しさもありますが、協和音の美しさは横綱です。
今年の待降節、今一度自らの人生のありのままを、改めて見つめてみましょう。そして、本人も気づいていない心からの叫び、乾く心を、そこに見出していければ・・・。
調和のとれた自らを目指して。
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