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年間第31主日:「畏れ」と「恐れ」の境界線は?その間を漂流している「わたし」

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年間第31主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第31主日(B年)の説教=マルコ12・28b~34

2024年11月3日

日本語はよく曖昧な言葉の代表であると言われますが、よくよく考えてみますと、「曖昧」というよりも「意味深長」な言葉であるということができるのではないでしょうか。そのようなことを意図している表現の言葉が多いのが日本語ではないかと思うところがあります。

次の表現はどうかわかりませんが、「恐れ」と「畏れ」はどうでしょうか。音としては同じ発音です。言葉の前後により意味が分かるという、話し言葉としては厄介者?でしょうか。

「恐れ」は、ある事柄に対して心の中で感じる不安や恐怖の感情を指し、何か危険なことが起こるかもしれないという心配や、怖いと感じる要素がある場合に使われます。

「畏れ」は、優れた存在や力に対して敬意や畏敬の念を持つ感情を表します。相手の偉大さや威厳に対して敬意を表現する場合に使われます。(「違い辞典」より)

きょうのみことばは、この二つのことば、「畏れ」と「恐れ」が、第一朗読の主題となっています。同時に、朗読聖書全体のテーマになっているのではないでしょうか。

イスラエルの民の日常は、いつも神のみ手がそこにあり、神の導き、励まし、語りかけによる愛の言葉等、聖なる神との出会いからすべての生活体験が織りなされています。その中で、民はシナイで神の顕現を体験しました。その際、神と接したにもかかわらず、死ぬことなく生き続けられています。この事実が「畏れ」を引き起こし、神への愛を搔き立てたのでした。

年間第31主日: 心を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい
年間第31主日(B年)の聖書=マルコ12・28b~34 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。・・・ 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

こうして彼らは、神を愛するようにと求められ、モーセを通して示された神の言葉を「心に留める」ようにと招かれます。神の愛に触れているから掟を実行できるのであり、与えられる「幸い」は神からの恵みです。今のわたしたちに対してもそうです。これだけのことをわたしたちがしたので、じゃ、神はこれだけのものを与えよう、というような、神との取引の結果ではありません。

今の時代に思いを移してみましょう。わたしたちの現実の世界において、神のわたしたちの日常生活への介入は、はっきりとした形で見えるもの、気づくことがありません。それを見極めることがとても困難です。しかし、ヒントはたくさん身の回りに存在しているように思われます。つまり、神の望まれる安定した、安全な、人間らしく日々を送ることができるための刺激剤となってくる諸運動、例えば、車の日頃の安全運転を高める「コンテスト」等、ひたすら、安心安全を求めた大会です。何も車だけではなく、より良き生き方を求めて実施されているイベントはたくさんあるでしょう。要は、人間が人間らしく、その品位にあった日々を目指すことでしょう。

こうした車の催しが8月1日~31日に実施されました。これは、日頃の運転が安全かどうかをチームで競う「セーフティドライブコンテスト」となっており、その表彰式が25日、鹿児島県庁で開かれています。このイベントは、あおいニッセイ同和損保鹿児島支店が主催し、参加者や県担当者ら約20人が出席。走行データを基に作成した交通安全マップも披露されました。

優勝したのは、「なんさつ地域」のグループでした。その代表である山口玲佳さん(21歳)は「自分の運転を見直す機会となった。1位を目標にしていたので達成できてうれしい」と喜んでいました。

何もこのようなコンテスト、乃至は、「~大会」として開催しなくても、日常の運転時が自分一人の大会なんですよね。でも、雰囲気がでませんから安全運転の意識が下がるんですかね。それでは困りますけどね。

いずれにせよ、人は、いつも人間らしく、よりふさわしい万人のためのより良き生きるための施策をいつも考えているんです。なぜならば、一人ひとりは皆、お互いにとって「大切な人」たちだからです。その最大の根拠は「神は言われた。 『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』 神は御自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって創造された。 男と女に創造された。」(創世記1章26~27節)

福音に登場する律法学士は、律法、聖書の研究を専門とする人々です。同時に、言うまでもなく、社会においては、民の指導者でもあったわけです。ところが、熱心さが行き過ぎ、「先人の言い伝え」がまともな教えである、と偏った説きかたをする流れが主流になっていったのでした。そこで今日の律法学士は、自分たちが見失ってしまっていることを、イエスに会い、教えの原点に立ち戻ろうとしているのです。

イエスの答えの中で、「神を愛せよ」「隣人を愛せよ」さらに、「これより大事な戒めはない」とイエスは強調なさっています。その中身とは何か、「愛よりも大事なものはない」とおっしゃっているのでしょうね。

「愛」とはいっても、人によって、民族、地域によってそのとらえ方には違いがあり得ます。何も愛だけではないでしょうが、・・・。そこで、かつて今は亡き森司教様が「お互いを大切にする心」と言い換えることができる、ということをおっしゃっておられたことを思い出します。これだと、どなたにでも伝わるし、納得がいく説明になりはしないでしょうか。その言いかえが効く根拠が、先に記した創世記の言葉です。「わたしたちは皆、神にかたどって創られたのです。」

やはり「愛」は人間生活の潤滑油になっているのではないでしょうか。わたしたち一人ひとりが置かれた場所で生かされていくからです。社会の中で、集りの中で、一人ひとりは存在価値があることを証明してくれるのも「愛」です。

理想は追いかけましょう、どこまでも。そのためのエネルギ―も十分にいただきつつ、わたしたちの希望ある今、これからは、さらに膨らんで楽しく豊かなものになっていくのでは、・・。

「恐れ」を抱くとき、人は神から後ずさりし、もの(奉納物)にこだわろうとします。しかし「畏れ」は人を神に近づかせ、神と隣人を愛する(大切にする)ことへと向かわせます。

 

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