『年間第33主日』の聖書と説教はこちら

三位一体:わたしたちは未完の信仰者。理解するより、信じて託せるかどうか

この記事は約5分で読めます。
三位一体(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

三位一体(B年)の説教=マタイ28・16~20

2024年5月26日

わたしたちは、それぞれの人生を歩んでいく中で、自分の置かれている環境を通してたくさんのことを体験し、感じて生きてきたし、これからも同じような生き方が続きます。その中で、わたしには気になっていることがあります。それは、あるものをアピールしたい時に、相手の不安感を煽って、紹介したいものを強調することが多いのではないかということです。

これは日本人固有のアプローチなんでしょうか。例えば、テレビ等を使った視覚に訴えるコマーシャルでは、健康を維持していくことの不安感を聴視者に煽り、そのための言葉を並び挙げて本命の品(薬)を紹介するのです。こうしたやり方が概して多いように思います。もっと積極的に薬そのものの良さを中心にコマーシャルすることはできないものかと、テレビを見ながら感じることが多々あります。日常でも「脅迫教育」、脅して言い聞かせるみたいなこと、ありますよね。

そういえば、全く関係はないことですが、ことばにおいては、「二重否定文」はとても高度な表現の仕方であると、その昔、教わった気がするのです。が、とはいっても、この表現もできることなら避けたほうが良いらしいです。その理由は、場合によっては、曖昧さを残してしまうことになるからだというのです。

例えば、「その作品は悪くないこともない。」という文を考えてみましょう。この文からは、その作品は悪くないけれど、普通~良いのどこかということが伝わりますが、今ひとつはっきりしません。
フリーライターのよりどころBlog

今一つは、肯定的に言ったほうがもっと簡潔で、意味もはっきりとするからです。

例えば、「A君がいなければ、この学園祭は成功しなかった。」という文について考えてみましょう。A君の功績を強調するためにあえて二重否定を用いていると考えられますが、事実を伝えるという点でいえば少々回りくどい表現になってしまっています。こちらもA君に語りかけるならともかく、事実を端的に伝えるためには「A君のおかげでこの学園祭は成功した。」とシンプルに書いた方が分かりやすいでしょう。(同上)

いずれにしても、気持ちを伝えるには、わざわざ凝った技法を使うよりも、思ったことを端的に語る方が真意は伝わるということでしょうか。

今日は三位一体の祝日です。わたしたちの信じる神はややこしい、むずかしい神である印象を与えていることが、これまでの人とのおつきあいで感じてきたことではあります。その原因は何かと考えてみると、「三位一体の神とはね・・」、と言って、一生懸命ことばで説明を試みようとするから、かえって分かりにくくしているのではないかと・・。言葉の限界ですね。

404 NOT FOUND | 教会のITサポート:826村
826村のテーマは、インターネット教会(電子教会)の研究です。

神は、わたしたちにとって、知って理解する存在ではなく、信じて託せるかどうかです。神への委託の心があれば、説明は不要となります。事実、人間同士の間でも信頼している相手のことをどれだけ知っているのでしょうか。たくさんのことを知っていることよりも、信頼していることの方が勝っているのではないですか。

そうです。信じていることをそのまま伝えること、それが大事になってくるのではないんでしょうか。いらぬ説明は不要です。そうすれば、自分が信じているイエスとは、こんなものだったのかと、自らにがっかりすることがあるかもしれません。でも、相手の方が「わたし」のどこを見てくれるか、何を聞いてくれるかによって、「わたし」の伝達に納得するかしないか、・・・いずれにせよ、大きな影響を与えることはできます。何らかの刺激を与えることはできます。すべてはそこから始まるのではないでしょうか。パウロの手紙に次のようにあります。

[信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。]と。(ローマの信徒への手紙10章6~10節)

「宣教する」とは、言うまでもなく、自分の主義主張をすることではなく、イエスを宣べ伝えることです。もちろんのこと、弟子たちみたいに、直接イエスと接したことがないわたしたちには、自分が信じている中身を伝えるしかないでしょう。

三位一体の神を伝えるのです。三位一体の神、これは、わたしたちに開示してくださった神の実体です。神については、神ご自身が自らを啓示してくださってはじめて、わたしたちには、知ることができるのです。その神をわたしたちはどのように信じているのでしょう。神の内面をつぶさに知ることはできないにしても、その神の交わりの中に入っていくことに招かれているのは確かです。事実、洗礼は、わたしたちに「父と子と聖霊の交わりに入れる」秘跡なのですから。

でも、弟子たちの中には「疑うもの」もいたと今日の福音記者は語っています。それでもイエスは、一切そのことは気にせず、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい・・・」という指示を出されます。彼らが宣教に向かうとき、イエスも共に彼らとおられます。そして彼らを教え導き、疑いを晴らしていきます。そして、宣教活動の中で信仰者へと完成していくのです。完全な信仰者だけが宣教するのではありません。

わたしたちも未完の信仰者です。常にともにおられるイエスを信じて、教えにしたがうとき、「弟子」とされ、宣教活動を通して、より完成へと歩き始めます。自分の信仰の内面を、いつもシンプルに見つめる訓練をしましょう。

宣教することに休みはないのですから、・・・。言葉を飾りつけず、誠実に、ありのままに。

 

三位一体【5月26日】の聖書はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました