主の昇天(B年)の説教=マルコ16・15~20
2024年5月12日
世界は嘆き、苦しみ、せつなる嘆きの叫びをあげています。
その叫び、声にならない声、ことばにならないことばに耳を傾ける時が来ているのではないでしょうか。
その「世界」とは、現実的な今の世界のはなしです。見渡すに、あちらこちらで紛争が起こっています。それを起こしているのは人間です。そして紛争は、人が関与する限りにおいて、どこまでも続きます。
こうした動きの中で、「世界の嘆き」「苦しみの叫び」をどこに聞きましょうか。何と叫んでいるのでしょうか。どこを見れば、聴けばいいのでしょう。また、表に出てきていない声、発出されていないことばをどのように聞けばいいのでしょう。それらにまずは気づくことが大事になります。
これらの出来事の表の部分は、しっかりと見えるので分かりやすいです。ところが、その出来事を通して語られているかもしれない多くの中身については見えにくいのです。分かりづらいのです。叫びになっていない叫び、ことばとして聞こえてこないことば、そして、次から次へと出来事は新たに起き、変化していきます。手に余るほどの新たな出来事が起きてくるのです。それだけ人が動いているということなんでしょう。それだけに「世界の叫び」「人々の苦しみ、嘆き」を読み取るには、・・・どうあればいいのでしょう。
今日は主の昇天の祝日です。この世におけるイエスの宣教活動の終局を迎えました。かつてイエスは、ガリラヤにおいて宣教活動の第一声を発したのです。その同じガリラヤにおいてその活動を閉じることにするのです。そして弟子たちを集め、彼らに重い役割・使命をお与えになりました。それは「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」と語り、ご自分は天に上げられたのです。主の昇天は神のもとへの決定的な帰還を祝するのです。
これを機に、イエスの活動のあり方が大きく転換します。つまり、これまでは人々の身近にいて手を取り、ことばを語りかけ、皆の労苦を慰め癒すかかわり方でした。これからは、その役割を果たしていくのは、弟子たちになります。そのために、天に上げられる直前になって、イエスは弟子たちを集め、語りかけ、重要な使命を託したのです。
その役割は、単に本を読んで得た知識とかではなく、イエスの出来事を見た証人・弟子たちが宣べ伝えるのですから、証人とイエスとの関わりを確証するしるしが伴わなければ、彼らの言葉を人々が信じるには困難さが生じます。救いは出来事に基づいているのです。出来事自体は「ある時、ある場所で」起こります。ですから、その場にいなかった人にとっては、それが告げられ、見て信じる機会を逸してしまったことになります。救いに与れないことになります。だからこそイエスは、「信じる者には次のようなしるしが伴う。」と明言し、それを受けて、「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」のです。これによって、弟子たちの語る言葉が空虚なものではなく、真実であることが保証されたわけです。これで、すべての人に救いのチャンスを与えることができるようになります。
イエスの姿は、弟子たち、民衆の前から消え去っていきます。が、ただ物理的にそばにいないだけで、イエスの活動が消え去ったわけではありません。繰り返しますが、「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」という形で、弟子たちを通して活動なさっています。つまりは、イエスは教会の中で、教会に集まる人々にふれ、その心に語りかけ、人々の重荷を背負っていかれるのです。今もなおその業を続けておられます。
したがって、教会に出会うことはイエスに出会うことであり、教会の人に触れることはイエスに触れることなのです。教会の持つ役割は、存在そのものが証しとなっていきます。しかもその教会は、イエスは言われます。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と。教会は地球上のすべての被造物に対する責任があります。福音を宣べ伝えることは、一人間の信念やイデオロギーを伝えることではありません。また、教会の影響力を政治の世界、経済界に強めるためにすることでもないです。イエスを伝えること、それだけです。人々とイエスの出会いをささえるためではないでしょうか。
これがまた、イエスのわたしたちに対する期待でもあります。そのためにも、世界の嘆きと苦しみの叫びをききとれる感性を豊かにしたいですね。そのききとりの始まりは、「わたし」の隣にいる人から始まります。そして、世界へとその思いは広がっていくことでしょう。同時に、感性の豊かな成長広がりも備わっていきます。
誰かが、どこかで、必ず声を、ことばを、叫びを発しているのです。
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