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復活節第6主日:聖霊が「わたし」の行動の原動力であり続けるためには

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復活節第6主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

復活節第6主日(A年)の説教=ヨハネ14・15~21

2023年5月14日

わたしたちは、敢えて考えるまでもないことですが、わたし自身を含め、それぞれに違ったタイプの人ばかりです。この「違い」がプラスに働くといいのですが、マイナスに働くと様々な問題が引き起こされていきます。その一つに「差別」という問題が身近なこととして浮かんできます。そして、これらの問題が生じるのは、すべて人間が引き起こすからであり、そして、その解決にはさらなる苦労を強いられているというのが、今日(こんにち)のわたしたちの日々の状況ではないでしょうか。

そこで大事になるのが、解決のために急いで結論を出そうとして焦らないことです。もっと問題の中身を見つめようとすることです。表面をなぞる感じで問題をやり過ごしていくだけでは、もっとも、それが社会的な問題となってきますと、さらなる出来事を新たに引き起こしていきます。これについては、わたしたちが日常体験していることであろうと思います。繰り返しになりますが、問題解決のために置き去りにしていけないこと、それは問題の表に見える現象だけを追うのではなく、問題の中身、発生因になっている中心・その「人」を見つめることです。今の時代の取り組み方はどうなんでしょうかね。

今日の福音はこのことについて訴えているように感じるのです。

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イエスの生涯は、その始まりから人間の傲慢、こだわり、弱さ、身勝手さ等に翻弄され続けた生涯であったということができないでしょうか。その頂点に達したのが受難と十字架刑による死でした。

つまりは、救いのメッセージはいつも歴史に深く根を下ろしていることを意味しています。同時にそれは、イエスが歴史的人物であることをも述べているのです。

イエス幼少のころの聖家族は「移転」続きで、その中でも際立っているのがエジプトへの逃亡生活を強いられたことです。イエス誕生の前には、ナザレを出て父ヨセフの故郷ベツレヘムへの移動。住民登録をするためでした。当時の全世界の支配者はローマ皇帝アウグストゥスでした。彼は支配者として、自分の支配下にいる人数を調べるために「全世界の人々を戸籍に登録せよ」という勅令を発布したのです。これは軍事的、ならびに、税金徴収を目的とした調査で、しばしば実施されていたといいます。

当時の近東人の習慣では、人は自分の先祖が出た町に属していると考えられていたので、ダビデ家に属していたヨセフは、ダビデの出身地であるユダヤのベツレヘムに行ったのです。旧約時代に救い主はダビデの子孫として生まれるという約束がありました。神のみ旨によると、救い主はダビデの子孫であり、ダビデの出身地ベツレヘムで誕生するということでした。

神の愛の計画は、救いの実現のために、実にいろいろの人を用います。「用いる」とはいってもむやみやたらに人間の意志を無視して用いるわけではありません。芝居人形のように、人を動かしているのではなく、人間の自由意志の力によって無駄なく、神のはからいは究極的には実現されているのです。

つまり、イエスの家族は、ローマ皇帝の「身勝手な」勅令に従って旅に出ましたが、それも神のみ旨の中に入っており、その旅を通して神の救いが実現していくのです、と、このように受け止めていくことが、歴史(現実の世界)に対する信仰による見方だといえるのでしょう。ルカはそのことを教えています。

したがって、イエスの生涯が「人間の傲慢、こだわり、弱さ、身勝手さ等に翻弄され続けた生涯」であったということは、その実、神のわたしたちを救おうとされる愛の計画の具体的な歴史であったということができます。イエスご自身から見ると、人間の弱さ、醜さ、足りなさ、こだわりは、イエスの救いの業の遂行のために何ら妨げにはならないのです。イエスとわたしたちとの間に何ら壁はないのです。

わたしたちの身近なところで起きる出来事、事件事故等には、耐えがたい悲しみと怒りと憤りを覚えます。その中にあって、それでも、それが神の愛の計画です、と受け止めることができますか。「気づいています。ても、心情的にそうできないでいるわたしなのです」とその時の思いを、ありのままの姿をさらけ出し、それを祈りとしてささげることができれば、イエスとの壁にはならないでしょう。イエスとの壁を作るとするならば、それは「ごうまんな心」です。「ごうまん」は、人間の弱さ、足りなさがあるのに、それに気づかず、闇の中にいるのに、光のうちにあると思い込んでいる「錯覚の心」です。おごりの心です。

もろもろの問題の起因はここにあります。イエスとの間にある高い壁が、イエスの業を邪魔するのです。やはり「人」なんです。「世」の人々、出来事のすべてにおいて、その中心にいるのは「人」です。

「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」とイエスが指摘しても、ユダヤ人はそれに気づこうともしない。

彼らに比べて弟子たちは、完璧な、弱さのない存在ではありません。しかし、それに気づき、受け止めているのです。「霊を見ようと知ろうとしている」のです。この差を見て、イエスは「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている」と言って、弟子たちに聖霊を受け取る約束をなさいます。

人が自らの弱さ、足りなさを熟知し、謙虚にイエスの前に自らを開いていく限り、聖霊が注がれ、内側から強く導いてくれます。聖霊の恵みは枯渇することはないのです。

「わたし」の行動の原動力であり続けますように。・・。

 

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