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年間第27主日:全ての良しは「神に似せて創られたわたし」の始まりに

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年間第27主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第27主日(B年)の説教=マルコ10・2~16

2021年10月3日                  

「始め良ければ終わり良し」 という言葉があります。言うまでもなく、みなさんはよくお分かりのことですが、つまり、「始めがうまくいけば、すべてが順調に進み、最後によい結果を得る。 だから最初は慎重でなければならない」ということですよね。

夫婦は家庭・社会・国家の始まりのハズが

かつて、結婚式の祝辞の中で、この言葉が引用されている場に何回も出合ったことがあります。夫婦としての始まり、それは、家庭の始まりであり、社会の始まりであり、大げさな言い方をしますと、国家の始まりであるといえます。いわゆる、共同体のすばらしさが発揮され、体感できる場が創造されていく始まりです。

それなのに、最近では「育児放棄」、「幼児虐待」という痛ましい事件が次々と起こっています。その度に、ある種、腹立たしさ、憤りを感じる時があります。同時に思うのが、「結婚」そのものについての国民の認識、意識が低下し、軽視されているのではないかということです。「結婚」は単なる「形」だけではないのではないですか。「誓い」なんですよ。それは「神仏に対して、ある行為の実行を固く決意する」ことなのです。(新明解国語辞典第5版) それこそ、「誓う」ことによって、新たな人生の歩みの始まりが、ここにあったのです。あくまでも始まりであって、これから織りなされる「わたしたち」の生のいとなみの入り口です。それが、虐待等の事件によって、無残にも挫折感に見舞われてしまいました。まことに残念です。

「育児放棄」「幼児虐待」の事件が次々と

つい最近の、ご存知の出来事です。                 

大阪府摂津市で新村 桜利斗(おりと) ちゃん(3)が熱湯をかけられて死亡し、母親の交際相手が逮捕された事件で、市と児童相談所が事件約1か月前に桜利斗ちゃんの家庭について「第三者からの暴力を止められないネグレクト(育児放棄)」と判定していたことがわかったのです。その後も、従来通りの見守りが継続されていたとはいっても、一時保護などの強い権限を持つ児相の対応に切り替えなかったことが判明しています。つまり、行政側の認識の甘さが浮き彫りになってしまいました。(讀賣新聞西部版2021年9月28日朝刊)

母親の交際相手の松原拓海容疑者の逮捕から一週間となるのを前に、28日、森山一正市長が会見しました。先ずは謝罪をし、「自治体としての役割は果たしていたつもりだが不十分だった可能性はある」と述べています。市は、母親からも相談され、母親の知人からも虐待の疑いがあると市に通報がありましたが、その生活実態を正確に把握せず、事件を防ぐことができなかったのです。(南日本新聞2021年9月29日朝刊)

当時のユダヤ社会での「離婚」のとらえ方

いくら互いを知り合う期間が長くあっても、男女が一生涯をともにすることの難しさは、昔も今も変わるものではないでしょう。イエスの時代にも同じです。どうしても離婚が社会問題として話題になるのです。ファリサイ派の人がイエスに近づいて試みます。「夫は妻と離婚してよいか」と。

当時のユダヤ社会には、「離婚」に関する考え方に二つの派がありました。一つは、どんな理由でもかまわないという安易な考え方の派と、妻の不品行だけを離婚の唯一の理由とする比較的厳しい考え方を持つ派です。その理由がどうであれ、離婚はゆるされるということで二派は一致していました。その根拠になるのがモーセの律法でした。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と。(申命記24章1節)

ファリサイ派の彼らは、律法をたてにして「離婚」の可能性を認め、主張します。しかし、大事なのは律法の持つ根本精神を分かることでしょう。イエスは、創世記に基づいてその精神を示されます。それというのは、「神は御自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって創造された。 男と女に創造された。」(創世記1章27節) また「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と記されています。

イエス「人は神にかたどって想像された」

確かに「神は御自分にかたどって人を創造された」のです。二人は神のかたどりとしての存在者なのです。その二人が交わるのです。それは絶対的です。あるかぎられた期間だけの交わりを誓うのではないのです。結婚する一人ひとりの存在は、有限かつ弱さ、エゴイズムを抱きつつも、永遠の愛を誓いあう二人なのです。永遠への歩みを始めた二人なのです。だからこそ結婚は尊いのです。

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このことの中に、イエスのファリサイ派への回答が含まれています。しかも、イエスの十字架の極みに至るまでの業は、愛することの究極な姿を示しています。それは、二人の愛による歩みへの評価をしてくれていることにつながりはしないでしょうか。

「始め良ければ終わり良し」という言葉も意気込みも、今の世代の人々には伝わっていかないのでしょうか。もの事の節目を大事にする日本人、これも今では廃れてきたのでしょうか。もっと自らを、しかも、自らの良さを発見し、大事にしたいですね。

「わたし」は神に似せて創られているのです。だからこそ、弱点だらけの「わたし」でも、自分の原点に戻って前に進むことができます。「始まり(原点)」は、やはり大事であるということではないでしょうか。

 

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