年間第28主日(A年)の説教=マタイ22.1~14
2014年10月12日
「子の心親知らず」「親の心子知らず」と言いますが、何がそうさせるかといえば、結局は、自分の目の前にある物事に、乃至は人にだけ、心と頭脳が支配されているからではないかと思うのです。なんて、偉そうなことを言える柄ではありませんが、わたしたち人間は、どうしても限界をいつも感じながらも、驕りたくなるものです。その結果、意識しなくても、責任転嫁をいとも簡単にしてしまいます。
ときどき思います。「人間は賢いはずなのに、時代が過ぎても、あまり成長した姿を感じない」と。これもまた、うぬぼれからくる現象なんでしょうか。
今日の福音を読んでみますと、人の持っている残酷さが、現代人にもありそうな残酷さが語られています。それには理不尽さを感じませんか。普通だと、断る時は丁寧に断るものでしょう。それがどうでしょう。招待された人々でありながら、招くために使わされた使いのものを無視するだけではなく、殺してしまいます。
招待をどのような理由で断ったのかは定かではありませんが、目の前の現実の生活にのめり込んだ彼らの日常が暴かれています。日常の糧を得ることが悪いというのではなく、「のめり込む」ことが、その姿勢が指摘されています。
日常は弱肉強食の現実によって支配されています。そう望まなくても、そうなっているのです。その中にあって、誰も助けてくれない競争社会が拍車をかけます。一度倒れてしまうと、冷たく、厳しい現実が人と社会の奥深くに横たわっています。そのことを、全身をもってひしひしと感じながら毎日がおりなされていきます。その現実は、お金であり、仕事であり、人とのかかわりです。これらが改善されるためには、どんな犠牲をも支払う覚悟で日々を送ります。
この世の現実に熱中している間は、イエスさまの呼びかけが届きにくいのです。このことを証明しているのが今日の福音の登場人物でしょう。呼びかけ(招待)を無視するだけではなく、うるさがられ、挙句の果ては、抹殺されます。それほどに、現実が魅力的なのです。そのような人々への警告が今日の福音ではないでしょうか。
迎えが来るほどに大事にされた招待者(ユダヤ人)ですが、それを拒絶することによって、その呼びかけは広く、ユダヤをこえて他の世界へとこだまします。町の大通りに広げられた招待者は、最初の人びととは違い、招待を受け入れました。
ここで問題になるのが、いつでも招待されることを思い、そのことへの感謝の心がある人と、そうでない人との違いが「礼服」という姿で表現されている、ということです。つまり、救われる(宴席につく)ための資格が云々されているのではなく、すでに救われた(招待者)ことへの感謝の思いがいつもあるかどうかです。
神は善人にも悪人にも雨を降らしてくださるのです。
コメント